なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(43)

    マルコ福音書による説教(43)、マルコによる福音書10:32-45
         
・私たちは、自分自身のことを一番よく知っているのは自分であると思っているかも知れません。けれども、何かのことにぶつかって、自分のことを一番よくわかっていないのは、自分自身であるということに気づかされることがあります。誰でも、自分自身を厳しく見つめることを好みません。他の人に対しては厳しい目で見ますが、同じように厳しく自分自身を見ることがなかなか難しいのです。自分には甘くなります。どこかで自分を認めたいという思いが、私たちの中に強くあります。また、自分を守ろうとする自己防衛も働きます。ですから、自分が問われたり、自分自身を根本的に問うたりするということを、私たちは好みません。けれども、福音書を見ますと弟子たちにとってイエスとの関係は、弟子たち自身が根本的に問われることでもありました。

・マルコによる福音書の著者は、イエスの弟子たちがお互い同志で「誰が一番偉いのか」と論じ合っていたことを、9章34節に記しています。そこのところは、既に説教でも取り上げましたが、そのような弟子たちをイエスは厳しくたしなめています。イエスは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9:35)とおっしゃって、「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われ(まし)た。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである』」(9:36・37)と。

・そして、今日の箇所でもまた、ゼベダイの子ヤコブヨハネが、イエスによって「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」(10:38)と言われています。その原因となっているのは、二人の弟子がイエスに、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(10:37)と願ったからです。

・この弟子たちの中にあります自己を偉大なものにさせたいという願いは、決してこの世的な偉大さへの欲望ではありませんでした。例えば政治的な権力者になりたいとか、経済界を動かす力ある人間になりたいとかというようなことではありませんでした。イエスに従う者たちの中で自分は一番偉い者になりたいということでした。ですから、この世においてというのではなく、この二人は、「イエスが栄光をお受けになる時」、つまり、この世の歴史が神によって終わりを告げ、地上の権力も滅び、イエスが王として万物を支配するとき、ということであります。

・このゼベダイの子ヤコブヨハネの二人の弟子たちとイエスとの「偉大さ」についての問答の記事の前には、イエスエルサレムに向かって、先頭に立って進んで行かれたということが記されています。そして3度目のイエスの受難と死の予告が述べられています。この予告では、今ここで、イエスがどのような運命を引き受けようとしていかれるのかが明らかにされています。すなわち、イエスは、この世と真正面から対決して十字架にかけられて殺されるのです。そのようなところで、イエスの弟子であるヤコブヨハネは、「この世」のことではなく、「イエスが栄光を受ける時」のことを考えていたというのです。

・つまり、弟子たちの師であるイエスが、「今、ここで」、彼を死へと追い詰めて行くところのこの世の力と対決しているにも拘わらずです。イエスの対決は、「十字架への道」という形でなされています。自分自身を守ることの故に、イエスを殺そうとするこの世の力に対して、同じ力によってではなく、イエスは自分自身を徹底的に捧げる(「自分の命を与える」)ことによって対決しているのであります(10:45)。そこに、「今、ここで」という現在に集中するイエス自身のめざす道を見ることができるのではないでしょうか。それがイエスの仕える姿です。

・初期の教会の中で歌われ、パウロもフィリピの信徒への手紙2章6節以下で引用しています「キリスト賛歌」にも、このイエスがめざした道が、明確に記されています。そのところを読んでみます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至まで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に述べて、父である神をたたえるのです」。

・ここには、イエス・キリストの栄光は、徹底的な「へりくだり」の中にあることが示されています。ゼベダイの子ヤコブヨハネの二人のイエスの弟子たちは、イエスの栄光ではなく、一般的なユダヤ教的な栄光を望んでいたのではないかと思います。「栄光のメシヤ」という、この世の王に代わる王としてのメシヤです。イエスご自身を、彼ら自身が従う方として信じ、イエスの生きざま、死にざまに倣って、彼らも生きようとするのではありませんでした。イエスの思いとは別に、彼らの思いの中で自分の期待するイエス像を作り上げて、それをイエスに当てはめようとしていたのでしょう。そこに、イエスと彼ら弟子たちとのめざす方向の根本的な違いが現れました。それは逆の方向です。

・このヤコブヨハネは、「父を捨て、舟や雇い人たちをおいて」、イエスに従った人たちです。その意味で、多くの資産のために、イエスに従い得ないで、悲しみながら立ち去った「金持ちの男」とは違います。しかし、その違いは極めてうわっつらでしかなかったことが、この弟子たちの姿によって暴露されています。マルコは、このような弟子たちの無理解な態度をたびたび福音書の中で描くことによって、当時の教会と信仰者一人一人が陥っていた、自分たちの願望によってイエスを歪めてしまう在り方に警告を発しているのではないかと思います。それは、イエスの十字架に極まるこの世の歩みから目をそらせ、教会のドグマの中でしかイエスが語られなくなることでもあります。それは、自分たちの側の願望や思いが、宗教化されている一種の世俗主義に過ぎません。人間の側の宗教的欲望が神聖化されたものです。イエスの父なる神と、その父なる神から派遣されたイエスから自分の在り方、生き方を悔改め、方向転換することによって生まれ変わって歩もうとするのではありません。はじめから自分たちの中にある思いを、イエスに投影して、イエスに背負わせようとしているだけです。弟子たちの自己肯定の上に築かれた宗教を弟子たちは求めているに過ぎません。

・「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」(38節)と、そのような弟子たちに対して、イエスは言われます。イエスは、弟子たちと思いを共有したいのです。そのめざす未来と、その未来を信じて生きる、今ここでの生きざまを共有したいのです。教会が、一つの洗礼と一つの聖餐を大切にしてきたのも、イエスの生涯と死と甦りの命を共有することをめざしているからです。そのイエスの命によって生まれる一つのからだをもって、私たちがこの世に立ち続けることです。イエスは、私たちのところに来て、私たちと同じようになり、既に私たちが捨ててしまった神の子供として歩み、私たちを招き、再び私たちを神の子供として回復しようとしておられるのです。そのためには、弟子たちと共に私たちが生まれ変わらなければなりません。生まれ変わるためには、死ぬべきものがはっきりと示されなければなりません。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」。

・イエスは、続けて「このわたしの飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるのか」と弟子たちに問われます。ヤコブヨハネは、「できます」と答えます。するとイエスは、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることになる」と言われます。 「杯」と「洗礼(バプテスマ)」という言葉は、この福音書を読んだ教会の人々には、聖餐と洗礼を連想させたと思います。ただそれだけではなく、これによって彼らもイエスの運命の中に共に引き込まれることを思い起したでしょう。

・「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼(バプテスマ)を受けたことを。わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父(おんちち)の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もしわたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(ロ-マの信徒の手紙6章3-6節)。

・「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることになる」というイエスの言葉は、最初は現在形、次は未来形で記されています。すでに先立ち進まれるイエスの道への参与にほかなりません。これは、弟子たちをイエスの祝福に参与せしめ、その祝福の命の中に弟子たちを置くことが、先ず最初にあり、それに続いてイエスと同じように弟子たちも生きることが示されています。ここには、先行するイエスが、かたくなな弟子たちを生まれ変わらせ、その上で、弟子たちが歩むべきイエスの道が示されています。「仕える」という言葉によって、それが語られています。

・「仕える」とは、そもそも給仕する奴隷の行為を意味しました。そこにこの言葉が示す方向があります。ヨハネによる福音書では、洗足のイエスによって、仕える者の姿がイメ-ジされています。仕える対象は、具体的な隣人です。ギリシャの世界では「国家」に仕えるとか、「自分自身を高めるために」仕えると、考えられていたそうです。他者としての隣人に仕えるという思想はなかったようです。「ここでイエスは、はっきりと『諸国民の支配者』の振るう『権力』を拒否し、さらに具体的に『大いなる者』『第一人者』をそれぞれ、『仕える者』と『奴隷』によって批判的に相対化している。この二つはロ-マ皇帝の本質と称号に関係がある可能性を想定できる」と言われています。

・「仕える」「仕え合う」ことによって、神に与えられたそれぞれの命を輝かすことができるのです。イエスは、十字架に極まるまで自ら仕えて生き抜くことによって、その道へと私たちを招いているのではないでしょうか。