なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(107、復刻版)

 今日も「黙想と祈りの夕べ通信(107、復刻版)」を掲載します。

 東電福島第一原発事故のことが気になりながら過ごしていますが、最近原発に関するある本を読んでいた時に、その本の中で紹介されていた『朽ちて行った命~被曝治療83日間の記録~』(新潮文庫)という本を知りました。早速購入して読んでみましたが、被曝が人体に及ぼすその破壊的な力の恐ろしさに圧倒されました。この本は、1999年9月30日に茨城県東海村の核燃料加工施設で起こった臨界事故で被曝した大内久さんの被曝から死亡までの83日間の治療を追った記録です。内部被曝の恐ろしさを考えると、福島におられる特にお子さんのある家族の不安の大きさ、深刻さを思わざるを得ません。東電や国の対応が今も企業の利益に向い、苦しむ人に向いていないことに怒りを覚えます。また、原発の再稼働には絶対反対です。
 
          黙想と祈りの夕べ(通信 107[-2] 2001・10・14発行)

 10月7日(日)の「黙想と祈りの夕べ」は、この集いが始って丸2年が経ち、3年目に入りました。「分かち合い」では、最初に私が説教について話しました。ここ数回説教が難産で苦しんでいます。そのことの根には、言葉の確かさへの揺らぎがあるように感じています。説教は、言葉(福音)の確かさへの信頼がないと出来ません。特にここ数回何だか分かりませんが、無力さを感じて、落ち込みました。妻に励ましを受けたり、たまたま祈祷会でのA兄の奨励の中で、毎日曜日の礼拝での説教は聖書の単純な真理の繰り返しだが、その都度感銘を受けるという主旨の発現があり、会衆の一人の方が説教をそういう風に感じてくれているのかと、力づけられたりして、何とか持ちこたえています。言葉より社会的実践ではないかという昔からの問いが、9・11の事件以来再び私の心を揺さぶっています。でも、自分が選らばれ・選び取ってきたこの道を、今後も歩まねばなりません。後何回説教をすることになるのか、分かりませんが、信徒説教者を含めて説教者のために祈っていただければ幸いです。

 この私の発言を聞いて、初めて出席した一人の姉妹が、私がいつまでも牧師の仕事を続けられるようにと語られた。彼女は先日月曜日に教会に初めて訪ねて来て、私が話を聞いた方ですが、私に話を聞いてもらって、心が浄化するような気持ちを持ったというのです。(そんなつもりで私は話したのではないのですが、話し方がまずかったのでしょう。心配させて申し訳なく思いました)。
 続けて一人の姉妹が、西区の障がい児のためのボランティアを立ち上げるので、手伝って欲しいというので講座にでかけた。最初受講者に紙が配られ、障がい児にどういうイメージをもつかについて書かされた。受講者の中に3人の男性がいて、その内の2人は「暗い」と書いた。自分は悲しかった。今まで障がい児から暗いというイメージを持ったことがなかった。むしろ子どもたちは輝いていると思う。社会的な困難さから暗いというイメージが出て来たのだろうが、直接子どもたちと触れたら、暗いというイメージは取り除かれると思う。私たちもそれぞれの場でいろいろな障がいの人と出会っていると思うが、心身のハンディと向かい合いながら懸命に生きているその姿は尊敬に値すると思う。暗いと言うイメージが変わっていくように努めたい。

 また別の姉妹は、先週の日曜日から風邪をひいて、声がよく出ないが、たまたまテレビを観ていたら、ニューヨークの崩壊したビルで救援活動をしていたら、十字架の形をした鉄骨が現われ、救援活動をしている人たちが手を合わせて祈っている姿が映し出されていた。救援活動に携わる人びとの祈りや願いが集約されたものとして象徴的に思えた。世界中の人たちが癒されたい、慰められたいと思っているのではないか。刻一刻と戦争が起きようとしている。難民となった人たちが逃げ惑っている映像を観て、今日は世界聖餐日の聖餐に与りたいと思った。園の運動会で家族揃って楽しめたのは感謝だが、何をしたらいいのか教えてくださいと、祈りたい気持ちだ。また、北村先生がおっしゃったことは、先生の弱さの一端だと思う。私たちが自分の弱さを言葉にすることは難しいが、それができ、そして聞く者が与えられていることは恵だと思おう。また別の姉妹は、この「黙想と祈りの夕べ」が2年間続き、最初はじめる時に、先生が2年はやると、言ってはじめられた。今月の役員会報告で、2年たってこの会は終わると言われなかったので、ホットしていると言われた。  

        「礼拝(奉仕)」(『ルターによる日々のみことば』から)

 わたしはかつて祭りを守る多くの人と共に群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神 の家に導いた。(詩編42:4)

 神の群れは、神のことばを聞くためにふさわしいある一定の場所と一定の日と時を必要とします。それゆえ、神は、すべての人が祈りと感謝のためにともに集まる場所で、聖礼典が会衆のために執行されるように定め、制定されました。

 このことによる利益は、キリスト者がともに集まるとき、祈りはほかの時よりもっと力強くなるからです。わたしたちはもちろんどのような場所でも、また、いつでも祈ることができますし、また祈らなければなりません。しかし、全会衆が祈るためにいっしょに集まり、ひとつのみ霊の一致を保っている時ほど、祈りが力強いことはありません。

 そして、わたしたちキリスト者は、どのようなやりかたで、どのような目的で、どのような時に集会を用いるべきか知ることが望ましいと言われています。それはわたしたちがある一定の場所に定められた時に集まって、神の与えてくださったすべての恵みに対して神をたたえ、み栄えに帰することに心を合わせると同時に、神のことばを学び、聞き、自分や他の兄弟の一般的な願いや特別な願いをたずさえて、強力な祈りを神のみ前に至らしめることを意味しております。これこそ、まことの礼拝と呼ばれるものであり、神のみこころにかない、神のみ前に喜ばれる礼拝です。

 このような集会とか、教会の集まりでなされることは、すべてきよく純粋で信仰に満ちており、神がまことのきよさのうちに礼拝され、人が救われるきよい安息日であります。
                       
                                (1544年の説教から)