なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(478)復刻版

黙想と祈りの夕べ通信(478)復刻版を掲載します。2008年の11月のものです。


          黙想と祈りの夕べ通信(478[-07]2008・11・16発行)復刻版

去る9日の日曜日には礼拝後「ランチ&お楽しみ会」がありました。私は日曜学校のバーベーキューの焼き手と

して、はじめから終わりまで、ひたすら肉を焼き、野菜を焼きました。右隣には九州からわざわざこのために

帰ってきてくれたのでしょう。Yさんが、私と同じ肉の焼き手として、やはりはじめから終わりまで、黙々と

仕事をしてくださいました。私たち二人は炭火に網でした。左隣には、携帯用ガスコンロ2台の火力による鉄

板で、焼きそばを連れ合いとK・Rさんが作っていました。

 この日は収穫感謝合同礼拝として、11月2日(日)の通常のこどもと大人の合同礼拝に続いて、2週連続の合

同礼拝でした。ほぼ普段日曜日の日曜学校に出席している子どもたちはフルメンバー、この日の収穫感謝合同

礼拝に出席しました。ですから、礼拝はいつもよりにぎやかでした。私は礼拝説教で詩編100編をテキストに感

謝と讃美についてお話をしました。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び

歌って御前に進み出よ」という礼拝参加者へのよびかけを、実際に古代へブル人が行っていた礼拝を想像して、

この呼びかけに応えて、会衆が「ハレルヤ、ハレルヤ」と讃美の声を上げる場面を再現してみました。説教の

中で、私が礼拝を司る者になって、上記の詩編の言葉を読み上げました。するとそれに応答して、会衆が「ハ

レルヤ、ハレルヤ」と讃美の声を上げるのです。なかなかいい感じでした。それをした後、私は本来礼拝は祝

祭であり、額に皺を寄せて、小難しい説教を聞いているのではなくて、みんな笑顔で喜び一杯というのが礼拝

ではないかと申し上げました。そういう礼拝をしたいと思うのですが、K・Y牧師が日本の教会の礼拝は「讃美

歌つき講演会」と言われたように、どうしても説教が中心になっていますので、それを変えるのはなかなか困

難です。このところ合同礼拝が新しい形式になって定着してきていますので、徐々に変えていけたらと思って

おります。

 お楽しみ会では、もっぱらバーベキューの焼き手に徹しておりましたので、ホールで行われていた催しには、

全く参加できませんでした。ゴスペルのときに、それを指導していた青年会のO・Nさんが、今日の礼拝でおこ

なった讃美がまさにゴスペルそのものだというお話をされていたのが聞こえてきました。また、ビンゴを楽し

んでいる子どもたちの興奮した声が聞こえてきました。そして最後に、懐かしい歌をみんなで歌いましたが、

ホールの出入り口の外で焼き手をしていた私の耳に、美しいハーモニーが飛びこんできました。参加者は80名

を越えていたようですので、はじめての試みとしては大成功ではなかったかと思います。

 昨年まではこの2年ほど日曜学校は、この時期野外礼拝という形で野島公園に出かけていき、礼拝をしバー

ベキューを楽しみました。今年は教会でお楽しみ会が企画されましたので、日曜学校ではお楽しみ会に合流し、

礼拝は収穫感謝合同礼拝にさせてもらいました。野外とうわけにはいきませんでしたが、教会で行ったという

こともあって、例年よりも子どもたちの参加者は多かったと思います。不思議なことですが、限られた状況に

よるその時々の変化を通して、新しい計画が立てられ、それが思わぬ豊かさをもたらすことになります。こう

でなければならないという不変の事柄は変えてはなりませんが、そうでなければ、私たちはむしろ変化を通し

て、多くの新しい発見を体験できるのではないでしょうか。その意味で、変わっていくことを恐れる必要はな

いと思います。
 

         「神のみ心のもとでの一致」      11月16日

 愛はすべてを一つにします。造られたもの、造られざるものすべてを。神のみ心も、すべての被造物の心も、

そして私たち自身の心も、愛の内に一つとなってゆきます。それが、あらゆる時代の偉大な神秘家たちが私た

ちに告げようとしてきたことです。ベネディクト、フランチェスコ、ビンゲンのヒルデガルト、ブラバントの

ハーデヴァイク、マイスター・エックハルトアヴィラのテレジア、十字架のヨハネ、ダグ・ハマーショルド

トマス・マートン、その他多くの神秘家たちが、それぞれの仕方で、それぞれの言葉で、すべてのものを一つ

にする神の愛の力を証ししてきました。けれどもこれらの神秘家たちはみな、知的な議論によって得られた知

識をもって語ったのではなく、観想的な祈りにおいて与えられた知識をもって語ったのでした。神秘家たちは、

エスの霊によって、神のみ心と、天地万物の心と、自分自身の心とが一つであることを悟る恵みを受けまし

た。造られたものと造られざるもののすべてが一つであることの真髄に触れることが可能になるのは、神のみ

心においてです。


                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)