なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(479)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(479)復刻版を掲載します。2008年11月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(479[-08]2008・11・23発行)復刻版


 今日の聖書箇所マタイによる福音書25章31-46節は、有名なところですので、多くの方がよく知っていると

ころだと思います。「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を

貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」かどうかということが問題の箇

所です。神の国を受け継ぐのは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてく

れたことなのだ」と王によって言われている人です。その人は誰かが飢えていたときに食べさせ、のどが渇い

ていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに

訪ねたのでしょう。その誰かがイエスであるとは知らずにです。そのような人は神に祝福され、神の国を受け

継ぐことができると言うのです。逆にそうでない人は永遠の火に入れられてしまうと言うのです。このイエス

の説話には祝福と呪いとうモチーフが明らかに現れています。他にも聖書には「祝福と呪い」というモチーフ

がでてきますが、このモチーフの意図は、祝福すべき事柄の強調にあって、呪いへの恐怖を増幅するためにあ

るのではないと思われます。けれども、こういうモチーフが一人歩きする危険性には注意を怠ってはなりませ

ん。中には聖書の中にあるこのような呪いが、いつの間にかその人の中でトラウマのようなものになるという

こともあり得ます。いたずらに祝福と呪いのモチーフを自分に当てはめて聖書を読むのは避けるべきです。聖

書の祝福と呪いとは直接関係ありませんが、名古屋時代に連れ合いを亡くし、一人で微熱が続く体調不良のと

きに、親切に訪ねてきた統一教会の人に騙されて、多宝塔を700万円で購入させられていた人がいました。多宝

塔の他にもお金を出したものがあって、その人は1000万円弱の大金を出していました。彼女がそうしたのは、

先祖が犯した罪が原因で彼女の息子に不幸が来るので、その呪いを断ち切るためにというロジックにはまって

しまったためでした。その後弁護士に相談して、出した金額の80パーセントくらいは返還してもらえたようで

す。この人の場合も、ある種呪いという考え方に縛られた例ではないでしょうか。このように呪いというよう

な暗い観念によって影響をうけてしまうところが、私たちの中にはあるように思います。それは、そのような

暗い観念に私たちの人間性の中にある歪みが反応するからではないでしょうか。

 上記の私の発言に続いて、一人の発言がありました。今日も国会前に座り込みに行って来た。国会前はいろ

いろな陳情の人たちが多く行き来し、賑やかだった。田母神さんのことがテレビなどで取り上げられてから、

国会前では今までになく右翼の動きが目に付く。「新しい教科書を作る会」の院内集会をしたり、外でも活発

に活動している。かつての日本の戦争は侵略ではないという発言からの一連の動きを見ていると、右翼による

クーデターでも起こるのではないかという空恐ろしささえ感じさせられている。自分たちのみが正しいと思い

込む人たちはいつの時代にも存在するが相手に対する一方的な行動が怖い。今の教団の中にも同じものを見る。

田母神さんという一人の発言によって、ニュースには出てこないが街宣車によるのとは違った右翼の行動が不

気味で、それを国会前にいると肌で感じられる。昨日起こった二件の元厚生官僚の事件にも何か恐いものを感

じている。


          「キリストが来られるのを待つ」 11月23日


 神が栄光の内に来られるのを根気よく待ち望まないならば、私たちはふらふらとさまよい始め、ちょっとし

た刺激へと動き回ることになります。私たちの生活は、新聞記事やテレビ番組、ゴシップでいっぱいになって

ゆきます。その結果、私たちの知性は、私たちをより神に近づけるものとそうでないものとを見分ける感覚が

鈍くなり、心は霊的な感受性を失ってしまうでしょう。

 キリストが再び来られるのを待つということがないと、私たちは活力を失い、その場限りの満足を与えてく

れるものであれば何にでも見境なく耽溺する誘惑にさらされてゆきます。パウロは私たちに目を醒ますように

と言っていますが、「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、

争いとねたみを捨てて、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用い

ては」(ローマ13:13-14)ならないのです。私たちには待ち望んでいる主がおられます。そして待ちながら

主をすでに経験することが出来るでしょう。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)