なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信復刻版(159)

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信復刻版(159)」を掲載します。

 この通信には、集いの中での発言を私がまとめたものを中心に、ローーズンゲンから次の一週間分の聖書日課といろいろな人の「日々のみことば」からその日のものを転載させていただいていました。この『日々のみことば』は、黙想のためのきっかけとして転載していますので、肯定的に受け止めるにしろ否定的に受け止めるにしろ、それぞれの思いで生かしてもらえればと思っていました。ご参考までに。


 
        黙想と祈りの夕べ通信復刻版(159[-1]2002/10/13発行)


 私は寿地区センターの委員をしていますが、最近寿の中に新しくNPOの活動体が活動をはじめてお

り、その活動とそれを支援する人をめぐって、他の団体からの批判が起きています。委員会としても私自

身としても、この問題に直接かかわることなはいと思いますが、今までどちらかと言えば、寿での諸活動

団体の足並みは、それぞれの運動の路線の違いによる団体間の分裂が際立っているということもなく、私

の見る限りそんなに乱れているとは思えませんでした。けれども、これからはその点難しくなるかも知れ

ません。いろいろなNPOが自主的に運動を立ち上げるでしょうから。そして寿の町自体が、かつての日

雇い労働者の寄せ場というよりもや高齢者さまざまな疾病を抱えた人を支える福祉の町に変わって来てい

ます。寿地区センターが関わっています身体障がい者の福祉作業所、精神障がい者の作業所ろばの家やグ

ループホーム、高齢者のふれあいホームなども福祉的な働きの場です。社会状況の変化によって、寿での

運動や働きも変わってこざるを得ないと思われますが、どうか寿地区センターの活動を覚えて見守ってく

ださい。

 上記の私の発言に続いて、一人の方から発言がありました。先日視覚障がい者のためのテープ朗読もみ

じの会の20周年の集いがあった。もみじの会のテープ朗読には私も数年前から加えてもらっている。20数

年前当時当教会で長岡輝子さんが詩編の朗読をしてくれたことがある。私はそれを聞いて感動し、名古屋

で親子劇場に参加し、そこから朗読のグループに加わり、朗読する機会を持った。当教会に来て、名古屋

で自分がしてきたのはテープとは違うので、しばらくはもみじの会に入るのを遠慮していたが、そのうち

に入れていただいた。聞き手があってテープ朗読もあり、与えられたものを一言一句間違いなく読むこと

を心がけていく。20周年の集いで聞き手の方からお礼の言葉を聞いた後のテープ朗読をしている自分のト

ーンが上がっていることに気づいた。マイクの向こうに人がいることを身に感じ、喜んで読んでいること

を感じた。相手を必要としている自分と、自分を必要としている相手の両方があって、はじめて活き活き

と生きていけることを再確認させられた。

 また別の方からの発言がありました。かつて関わりを持った方で、先日召され、今回納骨のために藤沢

の教会に行って来た報告をされた。その召された方は重荷を負っておられたが、藤沢の教会の牧師をはじ

め信徒の方々は、その方によって教会は恵まれたとおっしゃってとおられて、自分は感動した。礼拝後昼

食を一緒にさせてもらい、午後の納骨式に参列した。千葉から故人のお兄さんもいらして、式後も和やか

な時をもつことができた。たまたまその教会の近くに息子家族が住んでいる。息子家族が教会に導かれた

らと願い祈っている。神は長い年月を通してことをなしてくださるということが分かった一日であり、こ

れからも神を見上げて過ごしていきたい。

 また、別の方は、この黙想と祈りの夕べの集いに出席するようになって2か月になるが、今の自分にも

この集いは自分を振り返る時として必要である。最近夜中のテレビで寿の中の活動が取り上げられてい

た。ヤクザだった男性がホームヘルパーをしているということだが、男性2人のうちの一人が、ヘルパー

をしている中で、上辺だけのケアーになっている自分を反省させられ、ケアーは優しさではないかと語っ

ていた。自分も看護婦をしていて同じことを感じることがある。もう一人のヘルパーの人は、利用者との

関わりで、ありがとうと言われて、自分がこの仕事をやっていて良かったと思うと言っていた。私も同じ

ことを感じ、自分自身が元気づけられる。医療の現場では医療者の方が患者より上という意識が強いが、

実際にはそうではなく、相互に必要とされているのではないか。

 そして、もう一人の方が、今月の説教で「食卓をかこむ」という藩士があったが、実際には独りで食事

をする人もいる。食卓をかこむということの中には、一人が独り占めしないという側面もあるのではない

か。今の社会では一握りの成功者がいて、貧富の差が開いていくところがあり、グローバルスンタンダー

トと言いながら、一国が一人勝ちする傾向がある。世の中どうなっているのか、考えさせられる。


「教会の礼拝」(『ルターの日々のみことば』より)

 こうして、心を一つにして、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。
                            ローマ15:6

 わたしたちが神に対してなすことのできるすべては、讃美と感謝です。主ご自身がおっしゃっているように、これは唯一のまことの奉仕です。
 しかしもしわたしたちが神を愛さず、神の贈り物を受けないとすれば、唯一のまことの奉仕である讃美と礼拝を、どうして神にささげることができるでしょうか。しかいまさわたしたちが、神とその贈り物を知らないとすれば、そうして神を愛することができるでしょうか。さらにまた、神とその贈り物についてのべ伝える人がなく、福音がますの下におかれっぱなしになっているとすれば、どうして神とその贈り物について知ることができるでしょうか。なぜなら福音のないところでは、神を知ることができず、それゆえ、神に対する賛美も愛もないからです。そこで、当然礼拝もなくなります。
 パウロはわたしたちがひとつ心になり、声を合わせて神を讃美するようにすすめております。このことは、わたしたちがキリストにある同じ贈り物を受け、みな平等であることを知り、ひとつ心になり、それによってだれも他より自分を高しとせず、まただれも別の贈り物を要求しないときに、実現されることです。

                              降誕第二主日の説教