今日は「父北村雨垂とその作品(150)」を掲載します。
父北村雨垂とその作品(150)
原稿日記「一葉」から(その33)
青、赤と天は風車を十字路に 1980年(昭和55年)4月14日
むなしさや 駆ける私に 泣きながら 同
塵の私に 霧の熱涙をと現在に駆ける 同
神の子の血が 獄門を靜く染む 1980年(昭和55年)4月15日
太陽の乳に帰れ 流れ星 1980年(昭和55年)4月17日
過去帳に 居士と賜わる一行詩 1980年(昭和55年)4月21日
悔多き 吾を能面と討つべかり 同
修道院の鐘と無用な山羊髭も 同
三色(パン)菫(ジー)の迷うこころを風に聴く 同
主観と客観は意識の分裂ではない 1980年(昭和55年)4月15日
ヤスパースやショペンハウエルも(その他多くの哲学者)は客観と主観は意識の分裂によるものと考え
ているが、これは分裂ではなくて客観的意識の指向による客体の一種の刺激即ち抵抗による意識の反応が
主観となり同時に直観となるもの、例えば植物が太陽光線の刺激によって或る温度によって芽を出す状態
と似た状況によって主観を生成する。いわゆる意識が客体との関係による主観という新しい芽が生成した
とみるべきではないかと私には考えられる。そうしてこの芽がその時の状況の経過によって発展した枝と
なり、多くの葉をつけ、花を咲かせる様に主観もまた多様な生成となる意識の枝として発展する訳で、
決して意識の分裂とは考えられない。
雨垂考
哲学に於けるカントとショーペンハウエルは眞理の探求者としてのマルコポーロであり、ヘーゲルやマ
ルクスはそれらの荒地の開拓者であるが、ニーチェは感能的に異状な意識を醸成する特異な創見者であ
る、と考えられるが、私にはそのどちらか一方に指向することについては「未定」と答えるだけである。
1979年(昭和54年)4月17日 雨考
主なき部屋に時計も砂埃 1980年(昭和55年)4月21日
重水の修羅は世界と爆死するか 1980年(昭和55年)4月28日
相討ちや 重い水なら七ッの海に 同
雑草の唄声に君や鎌を研(と)ぐ 1980年(昭和55年)5月2日
懐ろの神は時計と 埴輪とか 同