今日は「父北村雨垂とその作品(151)」を掲載します。
父北村雨垂とその作品(151)
原稿日記「一葉」から(その34)
存在について
あらゆる存在についてもっとも信頼できる存在は、無である。それも田邊元博士や西田博士等の主張す
る絶対無の仮定的構想によるところを基盤として、つまり絶対弁証法によるものの存在を規定するという
構造がその確かさを証明する。またEtwas何かあるものも、その存在か非存在かの判定を規定することに
なるであらう。
1980年(昭和55年)5月5日 雨垂考
新形而上詩えの発想としての素材
形而上詩は論理的に思弁的な理性認識に代り、あくまで直観であり、その直観の多様なものの綜合を企
画する或る種の悟性形式[理性でない純粋思惟]という構想のうえにたてた力学的な意識を尊重する。
1980年(昭和55年)10月20日 雨垂考
コペルニクスの云い当てた源泉は悟性的直観であり、その直観が再度、悟性の故郷に帰って認識したと
ころの結集である。故にこの直観は、精錬された純粋な悟性的直観であり、私はこれを純粋悟性的直観に
よる形而上詩と(云う)こととする。純粋理性は、いわば、その点から觀ることは許されるが、内に入っ
て觀る(内内觀)は拒否されると同時に、コペルニクスの想定とも、偶然的ではあっても、その指向にお
いて反対の方向を意途したものにもなる。而しその故を以てこの想定が否定されることは、あたまも神の
存在を措定することを拒否することと同様な矛盾を味わなければなるまい。
1980年(昭和55年)10月23日
註:例をコペルニクスに採ったのはカント『純粋理性批判』の第二版序文中からである(岩波版)。
私の提唱する形而上詩型川柳メモ
形而上詩はあくまで詩が基体であることを絶対条件とする。故にこの形而上詩川柳は、思弁的理性認識
に換り、あくまで主体が直観であり、その基盤の直観のうえに思弁 ―理性を無視した― を意識的に駆
使するものと構想する。
1980年(昭和55年)11月3日
詩的直観に於ては、悟性は未だしも、理性の介入は ―意識的に技巧的に押入することは別であるが、
まったくその純粋性を混濁せしめるもので、詩の最も貴重とする美をまつ殺するもので却って純粋鑑賞者
を混乱におとしめる以外のなにものでもない。
芸術 ―この場合は詩に対する― 美は鑑賞者がその対象なる作品から直接美を受けつぐことではなく
て内觀するものだからです。ここに批評もまた創作であるとする根拠があるのだと私は考えている。
1980年(昭和55年)11月5日
詩型川柳の制作とは、或る日の或る時間に、私の内部から浮かびでた夢であり、その夢の断片が私の内
部に秘かに残っていたものを、後の参考になればと考えて書き残したもので、いわば回想された夢物語り
である。それだけに本当のことは何等自信めいたものもなく発表すること愚かしさにも気づかぬ訳でもな
いが、唯 これも私の人生の一とこまで在ったところの私を再確認しておきたいからとったものである。
現象の根源を「空」に求めると同時に基盤でも在るという複数の認識が私に在る。これが私の純粋な直
観せあると同時に私の純粋悟性→先験的悟性である。
直観と悟性殊に純粋悟性を別として觀ることに、私がなんら異存を押しはさむ意志は持たないが、而し
両者には非常に深い、或る濃い血縁関係にあることを無視することはできない。だから、詩の本体の中に
悟性、ときには純粋悟性概念までが押入されることがあっても作品として(詩として)肯定せざるを得な
い場合も生じることがある。
1980年(昭和55年)11月13日