なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(152)

 今日は「父北村雨垂とその作品(152)」を掲載します。

 
              父北村雨垂とその作品(152)

  
  原稿日記「一葉」から(その35)

 人間の理性はそれが理性である以上悟性に関係することがしばしばあるがそれは当然であり、そこに悟

性(詩の構成に使用された)を内包する作品に一種の「美」を理性が捉えることがある訳である、と私は

考えているが無理であらうか。


 私にとって大自然こそ神であり、それ以外のものに神の実在を承認することは全くできない。大自然

絶対無を征服する唯一の存在だからである。
 
                           1980年(昭和55年)11月13日 雨考

 私の考えている形而上詩という概念は、カントの云う形而上学の概念とまったく似たものであり ―或

はこれもカントの純粋理性批判から多分の影響を受けたということを否定することはできないが― いわ

ば学と詩という一枚の紙の表裏のようなものと考えていただければ良い。但し一枚の紙であっても表はど

こまでいっても表であり、裏は依然として裏であることに変わりはない。
   
 
                           1980年(昭和55年)11月21日

 ―ヤスパース― などフッサールの一門の現象学的哲学者達の一人が考えている客観と主観は意識の分

裂によるとするが、私にはそうは考えられない。即ち対象の触発(外感と内感も)―西田幾多郎博士が云

純粋経験― によることによって生成する意識の産出する状態 ―反応― であり、その状態が客観で

あり、その客観との共同操作による意識の生成するものが主観であると考えている。但し彼等の云う包越

者(超越者?)については十分に承認することが出来るが。
 
                           1980年(昭和55年)11月25日

 カントは理性について『純粋理性批判』第一版の序文で次のようなことを書いている。『人間理性の認

識について或る種のものだけは特殊の運命を持っている』として『理性が斥けることも答えることもでき

ない様な問題に悩まされているという運命』。これは斥けることのできない理性の自然的本性によって理

性に課せられている』『理性が答えることができないという運命 ―人間理性の一切の能力を超えてい

る』として『理性は原則から始まり、それらの原則は経験の経過において必ず使用することになる経験に

おいて十分に証明せしめられている。自然的本性上、必然的にその条件からまたその条件へと、無限に上

昇する決着のないこと。理性は一切の可能的な経験的使用を超えるにも拘わらず、常識とすら一致するほ

ど確実に見えるような原則に逃避せざるを得なくなる。理性は昏明と矛盾に陥る。つまり、どこかに隠れ

た謬見が根底にひそんでいることを推察するが、これを発見することができない ―理性の用いる原則は

一切の経験の限界を超出しているので経験による吟味を承知しない』と。以上がカントの説であるが、こ

こに形而上学的な、更に形而上詩としての存在基盤をみるような気が私に在る。如何なものであらうか。


 (註)『 』内のものは全部カント純粋理性批判第一版篠田秀雄氏訳から引用した。但し私がそれを

    訳した箇所もあることをお断りしておく。
 
 これは確かに理性の自己矛盾(アンチノミー)を含んでいる。そしてこのアンチノミー

によって閉ざされた扉を啓く鍵こそ形而上学と血液型の相似たところの形而上詩による象徴であらうと私

は考えている。

                          1980年(昭和55年)11月28日  雨考


 形而上詩の原型

 直観はもとより悟性までが、どちらも眞 ―眞理と云うのではなく単なる眞 ―即ち常識的な眞である

とする形而上学的な意識はそれが矛盾を含んでいるときその矛盾が『何』であるかを正しく捉えることも

できぬ様な対象に与えられた意識に成立する。それが形而上詩型の意識であると考えている。

                         1980年(昭和55年)11月30日 雨垂考