なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(16)

 今日も暑い日でしたが、風が爽やかに感じられました。台風が近づいているとのことですが、季節は確実に夏から秋に向っているようです。気温の変化の激しい時期ですので、くれぐれも健康には留意されて、お元気にお過ごしください。今日は「黙想と祈りの夕べ通信(16)」を掲載します。
 
 黙想と祈りの夕べ
   (通信№ 16 2000・1・16発行)
 
 前回の「黙想と祈りの夕べ」には、新しく参加した一人の姉妹がいました。後日その姉妹は、この集いの感想を手紙で私に寄せてくれました。彼女は、「黙想と祈り」とは「実によくできている」と書いてくれました。「主日礼拝ではゆっくり自分と向き合ったり、自分の抱えている問題を口に出す、あるいは他者の抱えている問題を聴き、わが身の悩みの小さきことに気付かされる、という時間がありませんものね」と。
 さて、前回の「黙想と祈りの夕べ」での「分かち合い」では、私が話す必要もなく、二人の方からお話がありました。一人の方は、この集いに一度も休まず参加されていますが、この集いによって本当に恵まれているという証をしてくれました。
 もう一人の方は、自分の話すことが共有することに価するかわからないが、と断った上で、この年末年始に寿で行なわれた越冬に参加しての感想を話されました。今回越冬闘争が終わってみて、なぜ自分は越冬に関わるのか考えてみた。一言では言えないが、何といっても自分は越冬に行くのが好きなのだ。一週間の間でいろいろな人と出会い、人間関係も濃くなる。その経験は大変魅力的である。けれども、越冬が終わると、自分はアパ-トに帰る。越冬中プレハブにいた人は、越冬が終わりプレハブが壊されると、また路上生活に戻る人が多い。プレハブ宿泊者と自分との間にあるミゾを感ぜざるを得ない。けれども、自分は寿の越冬を中心に、神奈川県の野宿者に関わるいろいろな運動がありそれに関わりたいと思うのは、野宿者が不当な扱いを受けるのは不合理であり、何とかしたいからだ。 彼が正直に話してくれた、日雇い労働者・野宿者に関わる運動に参加しての矛盾は、そのような運動に参加する者ならば、誰もが感じていることではないかと思われます。慈善的な思いで、「やってあげているのだ」という思い上がった人でないかぎりは。私も、かつて東京都足立区の本木という所で、当時「バタヤ」さんと呼ばれていた人たちと神学生時代5年、牧師になって近くの教会で働くようになってから5年、計10年間関わりを持ちました。主に本木にあったセツルメントの一つの集会の責任を引き受けるとう形での関わりでした。その集会に来る人たちは、殆ど「バタヤ」さんでした。その一人一人と、10年にもなると個人的には大変親しくなりました。けれども、私の生活は「バタヤ」さんの生活とは違います。両者には厳然とした「ミゾ」があるように思いました。かと言って、その「ミゾ」をなくして、自分の生活を「バタヤ」さんと同じように変えることはできませんでした。若かった私は、その「ミゾ」をそのままにして「バタヤ」さんと親しく関わることにある種の欺瞞を感じました。そしてしばらくして、本木の近くにあった、私が神学校卒業後最初に赴任した教会を辞し、紅葉坂教会の伝道師になり、「バタヤ」さんとの直接的な関わりから離れました。直接的な関わりからは離れても、「バタヤ」さんのことを全く考えないということではありませんでした。「ミゾ」を「ミゾ」として認めて、それをどうしたらうめられるのかを自分なりに考え続けて来たつもりです。私のこの体験は、私自身の現在の寿との関わりの在り方にも影響していると思っています。私にとって寿は「問い」であり、私が現在責任を持っています紅葉坂教会という「場」、それは紅葉坂教会に集まる人の交わりでありますが、その自分の選んだ(選ばされた)「場」で「問い」としての寿にどう応えられるかが、私の課題だと考えています。
 
(この文章は、2000年1月の時点のものですので、当時の寿の越冬には大きなプレハブが2棟越冬期間中に建てられました。しかし、最近の越冬にはこのプレハブはありません。)