なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(106、復刻版)

            黙想と祈りの夕べ(通信 106[-1] 2001・10・7発行)

 日曜学校で相手の顔が見えるということの大切さを考えさせられた。9月23日(日)の「老いを語る」礼拝に合わせて、日曜学校で年長者へのプレゼントを作った。幼少科はしおり、中高科はキャンディーを入れた折紙のボックス。幼少科では、しおりにどういう言葉を書くか考えたところ、素直に「いつまでもお元気で」という言葉と子どもたちの名前でした。プレゼントした年長者から絵はがきの手紙が届いた。キャンディーをなめ終えたら、元気が出たこと、Hくんの言葉に励まされたことが書いてあり、子どもたちにも読み聞かせた。子どもたちも喜んでいた。

 日曜学校ではフォスタープランという途上国の子どもの支援を続けてきた。レイナちゃんという中南米の国の子どもに。誕生日やクリスマスに手紙やカードのやりとりもしてきた。翻訳の関係もあり、返事も後になって送られてくる。今回あちらの事情が変わって、献金を受け取れなくなったということで、打ち切られることになった。今度どうするかスタッフで考え、顔が見える関係でつながりを持っていけたらと話し合った。私たちは投げ掛け、投げ返されるという応答関係によって生かされているのではないか。

 聖書の語りかけも、聖書の文字ではなかなか感じられないことも、礼拝や人との出会いで、人の取り次ぎを通して感じたり分かることが多い。今日も日曜学校の礼拝で、Yさんが、今回のテロの問題をラディン氏の写真などを準備して話された。子どもたちの反応は積極的で、Yさんのお話しが何度も中断されるほどであった。なぜテロをする人はアメリカを攻撃するのか? ボクたちも戦争になっちゃうの? 何人かの子どもたちが立ち上がって話す。現在の状況が小学生の子どもたちにまで緊張を与えていることがよくわかった。Yさんは次々に続く子どもたちの反応によって、話がさえぎられ、話しにくそうだったと思うが、本人はかえって、あれだけ子どもたちが考えてくれたので、子どもたちから励まされと言われた。応答関係の豊かさを日曜学校で経験させてもらった。

 上記の一人の姉妹の発言に続いて、もう一人の姉妹が以下のように発言した。

 今日は午前中礼拝に出席しないで、長いことお訪ねしなければならないと思っていたお年寄りの方を尋ねることができた。その方は近所に住んでおられたが、その頃はよくパンをたくさんいただいた。1月にお連れ合いが亡くなって、本人の遺言ということで、子どもたちだけで葬儀をすませた。その後、上大岡の息子さんのマンションで生活している。長いこと気になっていたので、思いきって今朝行ってきた。とても喜んでくれた。思ったよりもお元気で暮らしていたが、誰も訪ねて来る人がいないので、寂しいと言っておられた。ガーデニングを少し手伝って、喜ばれ、自分も元気をもらった。良い一日を過ごさせてもらった。感謝であると。

 「黙想と祈りの夕べ」も、9月30日をもって丸2年が経ちました。聖書朗読を聞いて、自由に思いめぐらし、それぞれの経験や気づきを共有しながら、祈り合うという形で2年続きました。参加者は限られ少数ですが、参加者には貴重な時間となっています。「通信」も2年間で105号になりました。受付に置いて、自由に取っていただいておりますが、他にも現在約40名弱の方々に2カ月か3カ月分をまとめてお送りしています。両方で約100名強の諸兄姉が「通信」と読んでくださっています。「黙想と祈り」が現実からの逃避ではなく、現実にとどまりそこで起こる様々な事柄に対処し、与えられた荷を担う力となりますように。
 
       「神の奥義の管理者」(『ルターによる日々のみことば』より)

 このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義の管理している者と見るが よい」(第一コリント4:1)

 パウロはここで、「わたしたちは神の知恵の管理者である」とか、「神の義の管理者である」などと、言うこともできました。しかしそのような表現では、その一面を語ることにしかならないのです。ですから、キリストのうちに提供されているすべてを含むため、「奥義」というひと言を用いているのです。彼は、ちょうどこのように言いたかったのでしょう。「わたしたちは霊の管理者であり、神の恵みと神の真理をわかち与えてゆく。いったいだれが神のはかりしれないすべての徳を数えつくすことができようか。そこでわたしはこれらすべてをひと言に含めて、神の奥義と言おう。それは信仰のみによって得ることができるから、奥義と呼び、かくされたものと呼ぶのである」。

 神の奥義は神の与えてくださるかくされたものであり、それらは神ご自身のうちに存在しているものです。しかし、悪魔も又おく義を持っております。黙示録17:5に、「その額には、一つの名がしるされていた、それは奥義であって、大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」といわれているとおりです。悪魔はその教えとわざが天国へ導くかのごとくみせかけます。しかし実際は、それを信じるすべての人に死とよみ以外のなにも与えません。これに反して、神の奥義はいのちと祝福を含んでおります。

 こうして、これらのことばによって、パウロがキリストのしもべを神の奥義の管理者とみていたことがわかります。すなわち、彼は自らを、キリストとキリストに属することだけを神の民にのべ伝える者と考え、また、他の人にもそのように認められていました。キリストのみが、わたしたちの生命、道、知恵、力、目標、祝福であり、キリストがなければわたしたちは死、まよい、愚か、無力、恥、のろい以外の何物でもないのです。そして、それ以外のものをのべ伝えるものは、神の奥義の管理者としてはみなされないのです。                             (降誕節第三主日の説教)