なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(185)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(185)」復刻版を掲載します。


      黙想と祈りの夕べ通信(185[-28]2003.4.13発行)復刻版

 ローマ帝国の奴隷反乱運動を専門とする歴史家土井正興さんが、もう大分前に三一新書の一冊と

して『イエス・キリスト~その歴史的追求~』という本を書きました。私が読んだのも大分前で記

憶が定かではありませんが、確かイエス運動の挫折について、このように書いていたように思いま

す。イエス運動を革命運動として捉えれば、イエスの革命運動がなぜ挫折したかと言えば、イエス

の「分け隔てしない」という教えがイエス運動を担っていた弟子たちの内部においても徹底されて

いたからだという主旨のようなことが言われていたように思います。私は、信仰者の群れとしての

教会は力を持つことをめざすのではなく、「分け隔てしない」にしろ、「互いに仕え会う」にし

ろ、イエスのめざしたものを大切に生きる群れではないかと思っています。教会が集団を形成する

限り、組織・制度としての側面を抱えざるを得ません。そして、そのような集団としての論理であ

る組織・制度に立って、物事を考えていかなければならない要素を持ちます。そこに大きな誘惑が

あると思いますが、教会は、一人一人の集まりであり、その一人一人を大切にしていかなければな

らないと思っています。イエスが一人を大切にされたように。そのことを基盤として、組織・制度

も整えられていかなければならないでしょう。そのために、時には、組織・制度が揺れ動いたとし

ても、イエスが大切にされたことを大切にする教会でありたいと思います。(今回の後半部は黙想

と祈りでの発言に付け加えたものです。)

 上記の私の発言に続いて一人の方の発言がありました。先週の寿の炊き出しは、Y学院の高校生

の参加があった。高3で受験を控えているので、早めに炊き出しに参加したという。受験にはボラ

ンティアの経験も内申に加味される。彼女たちの姿をみていると、そのようなことを越えた若い力

を感じる。炊き出しの作業を心をこめて、楽しみながらしているのが、彼女たちの生き生きした顔

で分かる。もう一つ別のことだが、後輩の友人でタイの山岳民族の子どもたちのために日本語を教

えている彼女から昨日電話があった。タイの山岳民族はその民族独自の言葉を使っているが、学校

に入るとタイ語を習う。友人の彼女は子どもたちに日本語を教えている。タイでは日本においての

英語やフランス語のように、日本語ができるとメリットがある。彼女の月給は3万円で、彼女自身

タイ語を習っているという。彼女にいつ帰るのか聞くと、「タイで自分がやったことを通して、

自分に自信がもてるようになったら帰る」と言った。一つ年下の友人だが、その力強い言葉に、私

も勇気づけられた。

 またもう一人の方からの発言がありました。昨日東京の足立区の自分が前に出席していた教会で

一人の方の「お別れ会」があり、出席した。奏楽者がオルガンの音量を小さめにひいた。会衆は30

名くらいで、みんなの讃美歌を歌う声も小さい。その中で自分の声量が目立ってしまい、気分が小

さくなってしまった。今日の礼拝では、いつものように自分の声量で歌えた。教会によっていろい

ろな礼拝があると思った。今日の礼拝では新来者が何人か紹介された。信徒の友の日毎の糧を読ん

でいると、礼拝出席者が10名くらいで新来者のないという教会もある。沢山の人で讃美できるの

は、日本の教会の中でも恵まれていると思い。全国には困難な教会が人数だけでなく経済的にも沢

山あることを覚えて、祈っていきたい。



    「主の肉と血は犠牲のそなえもの」(『ルターの日々のみことば』より)

 
 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わ 
 たしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。
  
                             へブル9:14

 
 ふたつの祭司職があります。ひとつは古い祭司職です。これは身の飾り、家、犠牲のそなえも

の、ゆるしなど、からだに属するすべての肉体的祭司職です。これにたいして新しい祭司職は霊の

飾り、霊の家、霊の犠牲のそなえもの、その他いっさいこれに属するものを含む霊の祭司職です。

キリストが祭司のわざをなし、ご自分を十字架上にささげられた時、この世の宝石や金銀で身を飾

らず、神の愛と、知恵と、忍耐と、従順と、その他もろもろの徳で飾られたからです。それらは神

だけがごらんになり、御霊が照り輝かすものです。それは霊的な飾りだからです。

 それゆえ、キリストの血と肉は、普通の肉体的な事柄と同じように見ることはできないのでし

た。それはアロンが議性をささげた時と様子が違っておりました。アロンの時には、子牛、雄羊、

鳥、パンなどの材料があっただけでなく、アロンが犠牲のそなえものをささげているのだというこ

とは民の目に明らかでした。これに反して、キリストは、ご自分の心のうちで、神の前にご自分を

ささげられたのであって、だれも見ることができず、気もつきませんでした。それゆえ、主の肉体

的な肉と血は霊的なそなえものです。

 同様に、キリストの教会、幕屋、家も、霊的です。それらは天にあります。すなわち、神の前に

あります。キリストが十字架にかかられたのは、宮の中ではなく、神のみ前であるからです。そし

て、キリストはきょうもなおその神の前におられます。また、祭壇は霊的な意味で十字架でありま

す。だれでも十字架の木をみることができても、それがキリストの祭壇であることを知らなかった

からです。このようにして、主の祈り、流された血、香、すべて霊的です。

                              1525年の説教から