なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(105、復刻版)

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(105、復刻版)を掲載します。

 「黙想と祈りの夕べ通信」には、「分かち合い」での発言要旨(今までこの部分を掲載)の他に、その週のローズンゲンの聖書日課と聖書の言葉を思い巡らす短い文章の引用を入れて出していました。ローズンゲンの聖書日課をここに掲載することはできませんので、聖書の言葉を思い巡らす短い文章は今後掲載するようにします。「分かち合い」での発言は、参加者の問いや信仰的な応答が内容になっています。聖書からの語りかけ、説き明かしの部分もあって、「黙想と祈りの夕べ通信」になっていますので、そうさせていただきます。今までそのことに気づきませんでした。このブログはキリスト教関係者以外の方も読んでいてくださるかも知れませんので。          

         黙想と祈りの夕べ (通信 105[-53] 2001・9・30発行)

 23日は「老いること」を語る礼拝でした。昨年から「敬老祝会」に代えて、年長者を覚えて共に礼拝に与るということで行なっています。今年も礼拝の中に詩の朗読を入れました。ヘルマン・ホイベルスの「最上のわざ」を、H姉に朗読していただきました。実は、9月の役員会で礼拝を考える会で話し合って提案したのは、別の詩でした。「年をとること」という詩です。この詩について、お年寄りには厳しすぎる表現があって不適切ではないか、という意見が役員の数名からでました。「最上のわざ」も役員会でまわしましたが、中には「年をとること」の方がよいという方もあり、実際に何人かの年著者の方に聞いて見て決めるということで、私に一任されました。さっそくその週の水曜日に聖書研究会がありましたので、聖研後に「年をとること」という詩をみなさんに配って読んでいただき、意見を聞きました。役員会同様数名から、同じような感想と詩の内容についての批判が出ました。そこで私は、「最上のわざ」を朗読することに決めました。

 ちなみに「年をとること」の前半の部分を記しておきます。「主よ、/私は年寄りと呼ばれる人間に属しています。/私はたそがれを生きています。まもなく夜になるでしょう。/どうか最後の一足を歩むときひとりぼっちにさせないで下さい。/…/私の人生は、かつて価値と意義とを持っていました。/私は働き、苦労し、影響力も持っていました。/私が為しとげたことは、遠くへしりぞいてしまいます。/どうか私をつらい気持から守って下さい、/私の知恵と能力を証明しようとする欲求から、/すべて正しかったのだと主張しようとする危険から、私の身を守って下さい。/私は手離すことを学びたいのです。/私はあなたの恩恵のほかは何も頼みとしたくないのです。/どうか私をもはや手離さないで下さい。/…/私の体力は衰えています。/病気が私を消耗します。/死は私の目前に立ちはだかり、避けられません。/私はあなたに切に願い求めます、どうか私の心が冷酷にならないように、/幻想の中へと逃避したり、/偽りの希望を捜し求めたりしないよう見守って下さい。/私はあなたが送って下さるものを受けたいのです、/私が新しい一の段階へと足をふみ入れ、/あなたが私を変えて下さるとき、その準備ができているように。/…/人々の真ただ中に私は暮らしていました。/今では私は孤独です。私の友人たちは死にました。/誰も私を必要としていません。ひとはみなそれぞれの道を行きます。/私は願い求めます、私が自分の心を/閉じてしまうことのないように、/そして私が自分自身に同情したりしないように、どうか助けて下さい。/私は静けさの中から働きかけることができるようになりたいと思います。/他の人々に代わってあなたの前に歩み出したいと思います。/どうか私にそのための言葉をお与え下さい。/私はあなたの愛の中で生まれました。どうか私が人を愛するようにお助けください。/…/(続く)」。

 23日の黙想と祈りの夕べの「分かち合い」では、私の「弱さ」についての発言に続いて、一人の兄弟が自分の近況報告をしてくれました。月曜から金曜まで1時間残業があり、仕事が忙しい。夜家に帰り、風呂に入り、テレビをつけると、「テロ」のニュ-スばかり。早く行方不明の方々が見つかることを願う。自分は木曜の「お江戸でござる」を楽しみに観ている。ビデオでは「釣りばか日誌」や山田洋次の「とらさん」や「学校」を観て、楽しんでいると。  

        「弱い者を用いられる」(『ルターによる日々のみことば』より)

  「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選ばれた」(第一コリント1:27)

 わたしたちが弱くなければ、キリストはわたしたちの上に力を行使することができません。もしわたしたちが、自分の力と権力で敵に対して抵抗するならば、それはわたしたちに栄光をきせていることであって、キリストではありません。しかし体験によれば、わたしたちは決して自分自身の力でやってゆくことができないということがわかります。神がそれをなさらなければならないのです。こうしてわたしたちの弱いところに神の栄光があらわれます。

 しばしば、わたしたちの敵が強く誇り高ぶっているときに、わたしたちは弱いのです。しかし、その中に、最後にはキリストが勝利をえられるということをわたしたちに確信させることにより、主キリストはわたしたちを慰めてくださいます。

 こうして、わたしたち自信とわたしたちの味方が、この世の前で粉々にくだけようとし、また屈従しようとするときや、わたしたちがこの世の目には表面上弱く見えるときや、だれかキリスト者が激しい圧迫を受けているときに、神はわたしたちをとりあつかってくださり、それにより、わたしたちはおそれず、また、失望しないようになります。その場合、わたしたちは、神が弱そうに見えておられるときにも、ふざけてそうしておられるのではなく、実は熱心の中でそうされているのだということがわかります。なぜなら神は、弱い者により力ある者を倒し、弱い者を高く上げられるからです。しかし、これらの事実を、よくやるように、この世的な理性の目で見てはなりません。そうすればわたしたちは滅びるでしょう。わたしたちは弱い者によって強い者を倒すのが神のみこころであることを知らなければなりません。この真理を信じて、そのまま目を閉じましょう。
                                (ヨハネ福音書6~8章の説教)