なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(141)復刻版

 昨日は、鶴巻のパソコンがメールもインターネットも出来なくなり、ブログを掲載することができませんでした。今日船越に移動し、船越のパソコンでこれを書いています。

 黙想と祈りの夕べ通信は、A4表に前回の発言者の要旨を書いて、裏にローズン聖書日課の一週間分と本からの引用(この頃は『ルターの日々のみことばから』)をしるしていました。私は信仰は対話ではないかと思っています。神(イエス)との対話と自分乃至は他者である隣人との対話です。その積み重ねによって、自分の生きていく道を選び取っているのではないかと思います。その対話を深めていくために、この黙想と祈りの夕べ通信が用いられることを願って、紅葉坂教会時代に約12年間発行を継続しました。それを復刻版として、ここに掲載しているわけです。何かのお役にたてば嬉しく思います。

 ちなみに黙想と祈りの夕べのプログラムは下記のの通りです。

            黙想と祈りの夕べプログラム
      
 黙 祷

 招 詞

 沈 黙

 讃 美   

 聖 想(「日毎の糧聖書」・黙想)

 讃 美   

 分かち合い(共有したいこと、祈りのテ-マなど、ここでの話題は文章にし、通信に載せていま       すが、この場だけの発言にしたい方は、発言の時に、そのことをおっしゃってくだ       さい)。
 祈 り(司会者、有志による自由祈祷・黙祷など)

 聖なるかな 21-85「サント・サント・サント」

 主の祈り

 祝 福

 讃 美  21-89
     (伴奏(ヒムプレーヤー)の2回目から2度くりかえし歌い、最後はハミングで)

「聖想(黙想)のときは、朗読聖書箇所(朗読)や『ルタ-による日々のみことば』(通信参照)に導かれて、各自自由に思いめぐらし、その言葉が開く信仰の世界にふれてください」。
    

    
     黙想と祈りの夕べ通信(141[36]2002・6・9 発行)復刻版

 5月28日―29日に、寿の作業所の一泊の旅行に介助者の一人として参加しました。28日の朝8時に作業所に集合して、バスで浜名湖の館山寺温泉に行きました。途中二度ほど東名高速のサーヴィスエリアで休憩して、お昼には館山寺に着きました。食事をして、パルパルという遊園地やロープウエイで展望台に登ったりして遊び、午後4時には宿舎の遠州エンパイアホテルに入りました。私は、介助者として参加しましたが、介助らしきことは、みんなで温泉に入るときに車椅子の方の介助を少ししただけでした。後はほとんど参加者の一人として一緒に旅行を楽しんできました。

 参加者の方と話していましたら、このホテルには3,4回来ているということでした。ホテルは館山寺温泉の中でも大きな部類に属し、施設も立派ではないかと思われました。それでも、ホテルの最上階にあります展望風呂は、障がいのある方への配慮はほとんど施されてはいませんでした。湯船が三段になっていて一段目の湯船も洗い場からまたいで入らなければなりませんでした。手すりはついていましたが、車椅子の方は自分で立つことはできませんでしたので、二人で抱えて湯船に入れなければなりませんでした。洗い場と余り段差がないような湯船のつくりでしたら、自分で這って入ることができたでしょう。それでも、このホテルが選ばれたのは障がいをもつ人の受け入れがよい方だからということでした。バリアフリーが観光地やそこの施設にまで徹底されることを願います。旅行は、みんな楽しそうで、何回も参加している人が多かったのでしょう、慣れているようでした。

 一人の姉妹が続いて発言した。ワールドカップ開催で、横浜もにぎやかしく万国旗が掲げられている。光の部分と闇の部分がくっきりと出ている。紅葉坂からMM21に行くガード下に2人のホームレスの人がいたが、布団がたたまれ、張り紙があり、そこにホームレスの人がいられなくなった。今日外出して、暑かったので喫茶店でお茶を飲み、何となく外の人の動きを見ていた。ガード下にいたおじさんはどこにいるのか気がかりだ。ユースホステルから出てきた外国人のサポーターの人たちが元気よく歩いている姿を見て、あの人たちに見られないために、おじさんたちはガード下にいられなくなったのだろうと思った。こういう時にこそ、心騒がせず静かにしたいという気持ちでいっぱいだ。

 また別の姉妹が、知的障がい者の施設のバザーにボランティアとして参加した体験から、いくつか感じたことを話してくれました。
         
     
       主は濃い暗の中に(『ルターの日々のみことばから』より)

  「主は濃き雲の中に住まれる」 列王上8:12、

 それゆえ、信仰とは、完全な暗黒でなにも見えないのに、そのような暗黒の中で、現実にキリストをつかんでいることを確信し、見る知識であります。それは、わたしたちの主なる神が、以前にはシナイ山と宮の暗黒の中に座しておられたのと同じです。それゆえ、わたしたちを神の前に正しい者として現われさせ、主に喜ばれるものとさせるわたしたちの義は、信仰にその外見を与える愛ではなく、信仰そのものです。

 キリストは見えないけれども、現実におられるという信仰、すなわち、見えないものに信頼する心の中にある、ひそかな知識であり、隠された奥義であります。しかも、信仰がわたしたちを義とするのは、高貴な宝、キリストをつかんでおり、主の臨在を信じているからです。しかし、主がどのようにして臨在されるかを、思索によって表現することはできません。それは今言ったように、濃い暗やみであり、隠された、高く、秘密の、はかり知れない知識であるからです。それゆえ、心のうちにこのような完全な信頼と純粋の確信があるところでは、この濃いやみの中にも、信仰のうちにキリストは臨在されます。これこそまことの義認であって、人を神の前に義とし、受けいれられる者とするものです。
                            ガラテヤ人への手紙講解