なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(131)

 今日は「父北村雨垂とその作品(131)」を掲載します。           

            父北村雨垂とその作品(131)

 原稿日記「一葉」から(その14)

 内に省みて疚しからずんば、それ何をか憂え何をか懼れん~論語
 自ら省みて縮くんば千萬人といえどもわれ往かん~孟子
 といふいづれも詩についての言とは、差がある様に考えられるが、亦私は決して君子とは自ら思ってみたことはないが、私の作品する態度については自ら省みて恥ずかしいとは思い当たらぬ。評者も自ら省みることを進言する。確信をもって恥ずること無しや、と。

人は 宇宙へ 神を贈り
神と宇宙は 人間を創造した
          だから
人間の愛には 神が匂ひ
智惠には宇宙の臍が跡を残している
だから
愛は一切を美化し
智惠は一切の力を創造する
                  1978年(昭和53年)2月15日  雨垂

 こころを端的に表現するものは音楽であることは常識であるといわれてゐる。音楽が擔うところの抽象的表現こそ作者のこころの表現であり音楽が最も良い道具となる。と、これまでは良く解るのであるが、それにしても余りに少ないのが悔まれる。ニーチェがその著『悲劇の誕生』でショーペンハウエル音楽理論をそのまま抽出し賛意を表してゐるこの二人の天才の言葉を信じて音楽をほんとうに聴いて楽しみたいものである。

 私の作品に対し、読者が賞賛したり、非難することも有るが、私は別に喜びもしないし悲しみを味うことをしない。と言うと何が嘘に聞えるかも知れないが確かに斯うした感動を、おさえる様に心がけてゐたのが習性の様になっている。但しその作品を再三、再四讀んで反省の材料とすることを忘れない様心掛けてゐる。それが不思議ともの作品の缼点が浮上して来るものである。

 釈迦やキリスト、或はソクラテス。亦は老子孔子等々。これらの偉大な宗教家、哲人も、決して、突如として生れたものではなく当然、生れるべきして出現した歴史的な人々である事は間違いない。故にこれらの人々の思想と時代を深く探求することが要請される。詩人や芸術家の思想も亦これに順ずること。

1979年(昭和54年)2月、3月に於ける作品の頁

  風と語る孤獨を酒が 提けて来る           藍12号
  神と血を請(う)けた証明(あかし)の白衣とも    藍11号
  憎らしい 蝶の目玉と 菜の花や           川研4月
  菜の花や 彼等は蝶と化けて来る 
  椿は佳いな 蕾が佳いな 道祖神           藍11号
  牙のある豚を産ませて神を謗る            藍12号
   (「牙のある豚を産んだぞ 神様」を、1979年(昭和54年)5月5日修正)
  天井は蒼く 大地を褥(しとね)とす             川研4月
  故里(ふるさと)に 老子荘子・・・狂気(ニーチェ)も招(よ)ぶか        藍11号
  詞(かみ)の目鼻に鑿と槌を採れ               川研4月
  逝く春へ また来る春へ 茨にて 薔薇(バラ)        川研4月