なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(130)

 今日は「父北村雨垂とその作品(130)」を掲載します。             

             父北村雨垂とその作品(130)

   原稿日記「一葉」から(その13)
 
 こころは、存在を指向する衝動―力(チカラ)―である。故にこの衝動に於ける抵抗感の如何によって快ともなり不快ともなる。故に悲しみも嬉びもこのこころの緊張―力―の状態の如何によると考へられる。そこで力とは何かと云うことになるが、ここで云う力は物理学に於ける力学と異なり、その本体は「無」である。

 但し單なる無ではなく西田哲学に於て云うところの自覚し自ら限定するところの無と云うべき状態であって、フッセルの云うところのノエマである自覚面ノエシスでもある。禅に於ける無の思想も、この無を如何に把えるかに大きな課題が在る。臨濟云うところの無位の眞人や無依の道人なぞはこの間の消息を長く傳へると云うべきであろう。                  雨


 新訂中国古典選6老子の中で著者福永光司博士が老子第二十章(113頁~116頁)の項で、我独り遺(とぼ)しの「我」と云う一人稱代名詞用いた論述が17,20,42,53,57,70等にも出ていると云ひ、最も多く表されているのが二十章で固有名詞の欠如が時空を超越した永遠普遍の眞理、現象的なものよりも根元的なもの人格的なものよりも原理的なものに対する老子の強い指向を象徴するものと云へるならば、一人稱を用いた老子の表現は、その永遠普遍の眞理の前に立つ一個の人間“道”を相手に独語する。と目覚めた人間の憂愁と歓喜を象徴するものと云へよう。しかし又その「我」は固有名詞を持たない我であり道が名を持たない様に我もまた名を持たない。

 名と云うものが他と区別するところにその本質を持つと云へるならば、その我が世俗にたちまじわり世俗の人々と区別される必要のある我では無くして、道の前に独り立ち道と独り只向かい合っていることを自覚する我である。ここでは名を持たぬ道と名を持たぬ我とが名を超へた世界で対話し、その対話の中で道と対話することを知らない衆人が世俗として意識されるに過ぎない―以下略す。これは、かつて私が川柳鷹33号(1966年〈昭和41年〉7月号発行)で発表した「私」100句の一句毎に使用した一人稱名詞「私」の意図を偶然のことながら代弁して呉れた事に大きな嬉びを感じた。註―この件については1969年(昭和44年)11月発行の川柳研究239号以降240,241号に難解性の問題についての中で書いてある。尚朝日新聞発行の中国古典選6は初版1968年(昭和43年)10月発行。

(上記「私」の句は下記のものではないかと思われる。既に前にこのブログに掲載したものである。「父北村雨垂とその作品(46)、(47)」である。ここに再掲載しておく。但し、上記では「私100句」とあるが、下記のものは100句もない。50句強である。)

『私』 = 経験について =        

経験の向うに私の「空間」があった
経験の向うに私をとりまく人達
経験の向うに私の明日が輻輳した
経験の向うに私が「新しきもの」を描く
経験の向うに私の赤ん坊を知らぬ
経験の向うに私が「時間」を握んだ
経験の向うに私が経験の峯にゐた
経験の向うに私がマルクスヘーゲルを讀んだ

『私』 = 信仰について =

私になにもない神に生きろと叱咤した
私に聖書は「驕れる言葉」をささやいた
私に神の映像が貯蓄を楽しんだ
私に神の子が神に「欲望」を託した
私に楽器が神が代辯した
私に神が「透明なるもの」の恐怖をみせた

私に父の立場を釋迦(シャカ)もキリストも伏せた

『私』 = 道について =

蜘蛛の巣よりも立派な私の道だ
弧を描いて私に戻って来る道だ
淡々として私が忘れて歩いた道だ
黙然と私が『諸君』と叫んだ道だ
喜びと悲しみを私に運ぶ道だ
戦争と平和を私にささやいた道だ
生きる証據に私は駆けねばならぬ道だ
在る限りの私の血が流れてゐる道だ

  藝術について

藝術が私の時間を凍結した
藝術が私を夢の王者とした
藝術が私の生と死をカクテルにした
藝術がわたしの生命を一メートルほど離した
藝術が私の魂をまざまざとみせた
藝術が私の煙草の煙がゆらゆら
藝術が私に狂人を生んで殺した
藝術が私に深い深い眠りに踊った

貨幣について

貨幣は私に「物質」にあらずでせう
貨幣が私に虚無の法悦が聴へる
貨幣の曰く「潔白」私は否と答へる
貨幣の人格を私もうたがわぬ
貨幣が作品で私が喜劇役者で
貨幣を創作した遥(はる)かな私の憶出で
貨幣が死ぬ私の歴史に死ぬか
貨幣の顔が私には道鏡の顔だ

家について

家が私の自我を指摘した
家が私に夢の巣窟でもあった
家が私に自然への不信を叫んだ
家が私が同質的隣人が端座した
家が私を孤児的動物とした
家が私に意志への城郭を築いた
家が私に系譜の郷愁に停った
家が私に頭脳的不具を怖れた