なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(25)

船越通信№25   2011年10月2日     
 
  925日の日曜日には18:00から紅葉坂教会で第47回かながわ明日の教団を考える会がありました。主に四つの課題について協議しました。
  一つは713日付で出された神奈川教区岩崎隆議長名で出された「第37回教団総会の結果に対する神奈川教区の対応」という文書についてです。この文書の中に、「現在、未受洗者配餐を行っている場合は、速やかに中止してくださるようお願いいたします」という文面があります。これは神奈川教区形成基本方針によって教区形成をしていきた神奈川教区の姿勢からすれば、行き過ぎです。未受洗者配について神奈川教区は容認してはいませんが、反対しているのでもありません。各個教会の主体性を重んじ、聖餐については話し合いを続けて行くというのが神奈川教区の今までの姿勢です。2003年に出された神奈川教区宣教委員会の答申にも、そのように書かれています。今回の議長文書は、このようなこれまでの神奈川教区の姿勢を一歩踏み出しているものです。現在の教団執行部や一部の未受洗者配餐をしている教会とは一緒にやれないと言っている連合長老会というグループの主張を無視できなかったのでしょう。かながわ明日の教団を考える会としては、「私たちの見解」としてこれまでの神奈川教区の姿勢の堅持を訴えることにし、その文章を検討しました。その「私たちの見解」に上記の宣教委員会の答申と、第37回教団総会がいかに異常な総会であったのかを示す「議案ガイド」を同封して、神奈川教区の諸教会・伝道所に送ることにしています。このような状況の中で聖餐についての建設的な議論が委縮していく危険性がありますので、今後かながわ明日の教団を考える会として、聖餐についても議論を呼び掛けていくことを申し合わせしました。
  二つ目は東日本大震災の被災者支援についてです。神奈川教区では社会委員会が奥羽の新生釜石教会へのボランティア派遣に取り組んでいますので、それに協力していくことと、教区の救援委員会(?)への働きかけもしていくことを確認しました。他教区では、例えば関西3教区は協力して、京都教区が窓口になってボランティアの青年を東北の支援センター「エマオ」へ送っています。大阪教区はレンタカーを一台教区が費用を払って東北の支援活動に役立てています。6ヶ月間の契約でしたが、更に6ヶ月間延長するようです。神奈川教区の社会委員会から派遣されたボランティアのお話では、特に喜ばれたのはボランティアの方の食事作りだそうです。もしそうであれば、神奈川教区として一週間単位とか10日単位とかでボランティアを継続して派遣することも可能でしょう。
  三つ目は教団関係の諸集会についてです。「教団ジャーナル『風』シンポジウム」(822信濃町教会で開催)、「東日本再震災緊急シンポジウム」(29日銀座教会で開催)、「東京教区と教団を考える会」(1014信濃町教会で開催)などの集会について報告しました。
  四つ目は私の裁判支援についてです。現在までの準備状況と支援のお願いをしました。
  この日はかながわ明日の教団を考える会の後、私の裁判支援をしてくださる神奈川の世話人と事務局で今後の打ち合わせをしました。特に支援の「呼びかけ文」の検討がなされました。ここで直した呼びかけ文を東京と大阪の世話人に送り、更に手直しをして完成させたものもって、各地で世話人を引き受けてくださる方をお願いして、代表の関田寛雄さんと世話人の名前で全国に支援を呼びかけることになっています。
  929日の第4回聖書研究は、本田哲郎『聖書を発見する』第3章「神はだれを選んだのか」の前半を扱いました。参加者は私を含めて4人でした。何時も出席していますKさんはお母さんが召され京都でした。ご家族の上に主の慰めをお祈り申し上げます。
  925日の礼拝では、マルコ福音書521-2435-43節の会堂長ヤイロの娘の癒しの物語からメッセージと取り次ぎました。ヤイロは会堂長としてユダヤ人共同体の指導的な立場にいた人です。会堂は安息日の礼拝や子どもたちの教育、時には共同体の中で起きる紛争の調停(裁判)が行われる場所でした。ですからその会堂を仕切るヤイロはそれなりにユダヤ人共同体の中では人々から尊敬されていた人であったでしょう。しかし、娘の病気には、彼の知識や知恵も彼の宗教(ユダヤ教)も、また父親としての愛情も何一つ力にはなりませんでした。イエスに家に来て、娘を癒してくれるようにヤイロは願います。そのイエスとの会話の途中に、家から使いの者が来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及びません」と言います。この後半部分は正確には、「…先生をわずらわしてどうなりますか」です。イエスでさえ、死んでしまった娘さんには何もできないのだからというわけでしょう。しかし、イエスはヤイロに言います。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。ヤイロはこの二つの言葉の前に立っています。このどちらの言葉に自分を賭けるか、ヤイロは問われています。シュラッターはこのように語ります。「ヤイロはイエスの強さにしがみついた。イエスが絶望されないので、彼もしっかりとしており、イエスが彼に今も助けを差し出しておられるので、それを喜ばしく期待できる」と。イエスは「子どもは死んでいるのではない。眠っているのだ」を言って、少女を起こします(起こすは復活の用語)。ここには病や死さえも相対化する少女とイエスの絶対的な関係が示唆されています。「この物語は、…読者に向かって、おそらくは何の『奇跡』も起こらぬであろうあなたの死に際して、神はその死に対しても勝利を収められているということを、信じることができるか、と問いかけているのである」(E.シュバイツアー)。