なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(32)

 今回の黙想と祈りの夕べ通信に出て来る「バラバラの一緒」というコピーは、後に紅葉坂教会の日曜学校で、金子みすずの「みんなちがって、みんないい」という言葉を共に、何年も使われた言葉です。私が最初にことの言葉を知らされたのは、以下の通信にでてくる一人の兄弟の発言からです。
 以下、今日は「黙想と祈りの夕べ通信」(32、復刻版?)を掲載します。
 
  黙想と祈りの夕べ
   (通信 32 2000・ 5・7発行)
 
 前回の「黙想と祈りの夕べ」でロ-ズンゲン主日聖書箇所から朗読しましたのは、旧約詩編122編と新約ヨハネ福音書20:19-29でした。共に「平和、平安」を祈る箇所でした。特にヨハネ福音書のところは、復活のイエスが、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた弟子たちのところに顕現された箇所です。その家はエルサレムのどこかにあったのでしょう。イエスの生前も隠れ家のようにして使っていたのかも知れません。十字架にかかったイエスを見捨てて逃げ去った弟子たちが、生前イエスと一緒にいたということから、自分たちにも危害が及ぶのではないかと恐れて、隠れていたのでしょう。そこにイエスが復活したその日の夕方イエスが現れたというのです。戸に鍵がかかっていたのですが、イエスが入って来て、弟子たちの「真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(20:19)というのです。ヨハネ福音書の記事は、続けてこのように記されています。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』(20:20-23)と。その後にはトマスの懐疑の記事が続きます。イエスを見捨てて逃げ去っていた弟子たちのところに、「あなたがたに平和があるように」と言って、復活のイエスがやって来たということは、弟子たちにとっては、予想外のことだったでしょう。戸に鍵をかけて、ユダヤ人を恐れていた彼らは、そのままでは再びイエスの弟子として立つことはなかったでしょう。イエスご自身の方から弟子たちのところにやって来た、この復活のイエスとの出会いによって、弟子たちは百パ-セントイエスによって再び弟子としての歩みに向かうのです。そのことを可能としたイエスの平和の重さを考えさせられます。私は、このイエスの「平和・平安」のことを考えながら、教会によっては礼拝の中で「平和の挨拶」を取り入れているところもあることを思い出しました。私たちは、言葉でそのような平和の挨拶をかわし合うことに慣れていませんし、違和感もあるでしょう。けれども、イエスの「平和・平安」によって、私たちの今があることを思わずにはおれません。
 前回の「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」では、一人の兄弟から、最近読んだ五木寛之の『連如』のことに触れて、「バラバラの一緒」という言葉についての感想が語られました。彼は、小さい時から自分はみんなと一緒には行動できないところがあって、一緒にということが、どこかで自分には無理を強いるところがあったので、この「バラバラの一緒」という言葉は、いい言葉だと思ったというのです。一緒の一緒でも、バラバラのバラバラでもなく、「バラバラの一緒」というところがいいと。学級崩壊ということが言われるが、その場合にはバラバラのバラバラということなのだろうと。
 彼が紹介してくれた「バラバラの一緒」という言葉は、それぞれの個性が重んじられてゆるやかな連帯が成立する、個と共同性の在り様を見事に指し示しているように思いました。単に「バラバラ」でもなく、単に「一緒」でもない、本来矛盾する「バラバラ」と「一緒」が結びつく地平にこそ、私たちの生き易さがあるのでしょう。