なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(45、復刻版)

 以下の10年以上前に発行された「黙想と祈りの夕べ通信」にグループリビングということが出てきます。その後テレビなどから、擬似家族的なアパートの紹介があったりして、肉親の家族ではなく、赤の他人が家族のような共同生活を実験的に行っているという事例が紹介されることもあります。けれども、実際にはそのようなグループリビングが拡がっているのかというと、それ程ではないように思われます。日本人の場合は自立した個の集合というよりは、まだまだ個人の中にも家族幻想が強く、自立した「私」という個というよりも家族・肉親幻想が濃厚なある種の「我々的」な個という場合が多いように思います。グループリビングが成立する条件の重要な一要素には、それぞれの個がある程度自立していなければ難しいのではないかと思われます。今後日本社会がますます村的な人間の共同性から遠のいて、匿名の個人が社会に投げ出された状態が加速するでしょうから、人間の共同のあり方をどうしていくのか、よくよく考えておかなければなりませんし、いろいろな実験が行われていくことになるでしょう。人は独りではなく連帯の中で生きていくことができる存在ですから。
 
 黙想と祈りの夕べ
   (通信 45 2000・ 8・6発行)

 「黙想と祈りの夕べ」では、その日のロ-ズンゲン主日聖書箇所から旧約詩編と新約の福音書か書簡のどちらかを朗読しています。7月30日の詩編は139編でした。「分かち合い」で、私はこの詩編についての感想を述べました。使徒信条の中に「陰府に降り」というくだりがありますが、そのところの講解によくありますように、イエスは陰府にまで降り、人間の生と死の一切を経験され、私たちがどこに行こうとも、イエスが共にいて下さるというのです。そのことに通じる内容が詩編139編でも語られているように思いました。

 「どこへ行けば/あなたの霊から離れることができよう。/どこに逃れば、御顔を避けることができよう。/天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます」(7、8節)。「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった」(13節)。「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。/わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから」(16節)など。
 インマヌエル(神我らと共にいます)とうい現実に私たちが日々生かされていることを思います。どんなときにも、たとえ自他の厳しい現実に出会う時にも、深いところでこの原事実のあることを見失わないでいきたいと思います。

 また、K姉が、先週の日曜日礼拝後に開かれた「敬老祝会について」の全体懇談会から、この一週間いろいろ老いについて考えさせられたと言って、以下のようなお話をしてくれました。かつてのような大家族制によって身内の人がお年寄を支えるというのではなく、他人同士でもいろいろな人が支え合うという形態がこれからの姿ではないか。テレビで斉藤茂太さんが6、7の他人が一緒に生活するグル-プリビングについて話していた。グル-プリビングで生活するには、100%を求めるのではなく、60%で満足できる人間であること。また適度なストレスや劣等感を持っていることが、そのストレスや劣等感が生きる力になるので大切であることなど。それを観ながら、よく生きよく死ぬということをきちんと考えていきたいと思ったと。また教会のオリ-ブの会(年長者の昼食会)でのこと、みんな一人づつ近況報告をしているが、一人の姉妹が、私は何もありませんでしたと言った。その時隣の方が声を掛けて、彼女から、庭の草を抜いたこと、バラの花が咲いていて美しかったことなどの報告を引き出した。隣の方は、何もなくはないじゃない、よかったわねと言った。共に生きるとは、このようなことではないだろうか、その光景を見ていて、友人と共に過ごせることは素晴らしく思えたと、K姉は言いました。自分は兄弟姉妹もなく独りで、以前は独りの方が気楽だと思っていたが、この頃グル-プリビングのような生活が望ましいのかもしれないと思うようになった。そのためには100%ではなく60%で満足できる人間でなければならないと思うし、いよいよ自分自身にとって老いをよく生きよく死ぬということが切実になってきたと思う一週間でしたと。

 ジグソ-パズルはいろいろな形をした断片が他の断片とつながり、全体で一つの完成品ができるのですが、私たち一人一人も他者とつながり、全体でひとつの交わりを形成しているのかも知れません。そのためには自己完結した完全な円ではなく、どこかに歪みを抱えた不完全さがかえって連帯を生み出す要素なのでしょう。