なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(45)

 以下の父の作品ノートからすると、父は「私」をテーマに随分苦闘していたことが分かります。人間は個体としては一生物種としての生命体ですが、社会的存在としては、一体何なのかを把握するのはそう簡単なことではありません。私とは何ものなのか? このテーマは人間である私たちにとっては永遠のテーマに違いありません。父がある固定的な概念でとらえた「私」には満足できず、その奥の奥を探求していたことを知り、うれしく思いました。
 さて、昨日は神奈川教区の社会福祉小委員会主催の研修会が、本田哲郎さんが講師で紅葉坂教会で行われました。100名以上の方々が出席し、会としても盛会でした。本田さんは、イエスはどこにいるか?という点から聖書を説き明かしてくれました。本田さんの視点、視座は大変明快です。この集会の主催者である社会福祉委員会の委員長であるI牧師から、最初の挨拶で障がい者の視点から、今の教会は変わらなければならないのではないか、教会の変革が求められているとの発言がありました。本田さんはこの世で最も小さくされている人たちを扇の要にして彼ら彼女らの解放にみんなが参与する運動がイエス運動ではないかということをお話されました。私の『自立と共生の場としての教会』も同じ方向性で書かれていますので、本田さんもこの私の本の主張に反対するのはおかしいのではないかと言ってくださいました。
 今日は、「父北村雨垂とその作品」(45)を掲載します。


私について                    北村雨

「私」を描かうと考へてから何年になるかしら。たしか山梨の「ころ柿」の選をたのまれたとき、ふと考へついた「題」が「私」であった。そのとき応募された人々の句が、私の意図した「私」とは、およそかけはなれたものばかりであった。私の考へてゐた「私」とは全く縁もゆかりもないものばかりであった。責任上、私はその選を、実は嫌やいやながら濟ませ、さてそれから考へた。ひとつ自分で創ってみようと。
 ところがである。それから私の頭の中に、この「私」がこびりついて離れない。朝に、晝に、夕に、私から「私」がついて離れない。そしてなぜかその私が意図する「私」がどうしても創れない。それどころではない。どう創るべきかが皆目わからなくなってしまった。見当がつかないのである。ひとつきたち、ふた月たった。やはり目途もつかない。私にだんだんあせりが出て来た。唯、気がいらいらするばかりである。
 三月たったか六月たったかはハッキリしないが、いつしか私の頭から「私」が消えてゐた。焦心が薄れて来た。結局「私」を私が投げてしまったのである。それと同時に私は川柳も投げてしまった。川柳を創らうとすると「私」が亡霊のやうに私の頭に浮かんで来る。この亡霊が絶壁のやうに私の前にたちはだかって私の作句意慾を妨害してしまう。私はそこから一歩も進めないのである。自然川柳から遠ざかるより外に手がなかった。
 それが偶然に昨年の春頃から出来る様な気持になった。いと口が見つかったのだ。突破口が発見されたのである。「私」の在り家がみつかったのである。私は、欣喜躍雀した。私は夢中で創作にかかった。よかった、よかったとひとり悦に入った。その作品が雑誌「からす」への原稿となった五句である。而しその「からす」が印刷されて、そこであらためて「私」をみたとき、それまで張り切ってゐた「こころ」がまた、なよなよと倒れかかってしまった。まだまだ私の意図した、最初の「私」とはかなり遠いものであったからである。それはあくまで「いとぐち」であったに過ぎなかった。突破口を発見出来ただけの事であった。
 その後いぜんとして私は「私」の突破口の入口でまごまごしてゐる。奥は年々まっくらである。だが私はいまはもう「投げる」ことはしない。いま私は手探りをしながらその中に入りこもうといてゐる。しょうがいをかけても。
                                    

 『私』   からす出句

交叉したふたつの円が 捜す私
眞夜中を歩く 私の自信めくもの
画家よ 私ならば一切を無色で描く
暗闇に 一点 無限である私
胸の弔旗「永久」とは無駄な言葉

 第三句の無色は最初
  街のえかき 私は無色が欲しい
 としたが、ないかこの方が良い様にも考へられる。

 次の七句は「私」とは関係なく創ったものである「路」へ発表した。

 「狂人」

陽も踊る狂人も踊る「蜘蛛の巣」だ
狂人も平凡に歸る「悲劇」も帰る
実に静かに狂人が見てゐる「ぼんおどり」
狂人の胸に「はかいし」は父であらうか
狂人が歴史に「断層」を描いた
あすの「ちつじょ」へ狂人が駆けだした
狂人に新聞もラジオも激賞した