なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(236)復刻版

 今日も「黙想と祈りの夕べ通信(236)」復刻版を掲載します。235は飛ばします。


    黙想と祈りの夕べ通信(236[-27]2004・4. 4発行)復刻版


 今日(2004年3月28日)で日曜夜の黙想と祈りの夕べは終わります。4月からは第2、3、4、

5水曜日夜に移行します。この集いを始める想いとして二つありました。一つはボンフェッファー

の「待ちつつ、祈りつつ、正義を行いつつ」ということです。祈りは行動を生むと思います、その

ことの大切さを思いました。もう一つは、この集いを始める前にこういう言葉を何人かの方から聞

いたことです。それは「礼拝には元気でないと来れない」という声でした。しかも比較的若い方か

らの声でした。この二つの想いがこの集いを始める時に持っていたものです。実際に始まって見る

と、後者の方々の声には十分応えられないことを知りました。もちろん全く応えられないというこ

とはありません。断続的にそういう方も参加されています。この集いを続けて見て、自分自身にと

って大切な集いであることをしみじみと感じるようになりました。個としての自分を顧み、神との

対話の時として、また自分が感じたり思ったりしたことを「分かち合い」で発言することによっ

て、自分自身の思いがまとまっていく体験をしています。始めてから4年半になりますが、最初の

「2,3年は続けたい」ということからすれば、随分長く続いています。4月からは日時が変わり

ます。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今日は寿地区センター主事のMさ

んを招いて話を聞いた。司会のSさんが、「寿には圧倒的に男性が多いのは何故でしょうか」とう

質問をされた。何故寿の住人は男性が圧倒的に多いのかということは、日本の男社会が影響してい

ると思われる。男が稼いで家を守るという空気が今でも強い。ランチタイムにレストランに行くと

圧倒的に女性のグループが多い。大変片寄っている。私自身も子育てをしていた時は、娘と息子と

では対し方が違っていたように思う。男の子は自立して働いて稼がなければならないからと思った

が、女の子には男の子と同じようには考えていなかったように思う。寿も男社会が造り出したもの

ではないかと思っていたので、寿の住人に男性が多いのは何故か?という問いは、自分としては意

外だった。逆差別というか、女性が経済的に自立していなくて、夫の稼ぎで生活している人も多い

が、男性はそういうわけにはこれまではいかなかったので、出稼ぎやリストラで仕事を失ってしま

うと、行き場がなくなり、寿のような所に生活せざるを得ないのではないか。私自身も一人で経済

的に生きていけと言われたら、食べていけない面がある。これからは男も女も働いて食べていくよ

うにならなければならないと思う。建築現場を見ていて、ブルトーザーをはじめ機械化が進み、人

の働く場をなくしている。物も外国で生産したものを日本で買うとうい風になっている。日本で作

れば、働く人の雇用も増える。福祉作業所でも、外国に仕事を持っていくので、仕事がない。例え

非合理であっても、効率ではなく仕事が多くの人に分配されたらと思う。ヘルパーさんを頼んで

も、窓ふきのような仕事はしてくれない。仕事もみんなで少しずつ分かち合い、富の分配も公平

に、能力的にも能力主義ではなく、その人その人ができることをして、それそれ生かされて生きる

社会が来ることを祈りたいと思った。

 続いてもう一人の方から発言がありました。今日は3月最後の日曜日で、この会が平日になると

来れないので、今日は参加させてもらったと。彼は「バラバラのいっしょ」についての所感を述べ

て、最後にこの会に参加させてもらって、ありがとう、と言われた。


 次回からは第2、3、4、5水曜日午後7時開始になります。




       「主に従え」(『ルターによる日々のみことば』より)


 「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていな 
 さい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう」
 
                               ヨハネ15:20


 これらのことばは、あらゆるキリストのしもべの心の中に彫りつけられなければなりません。そ

して、彼らを動かし、彼らに対して神がさだめられたことを喜んでなしたり、苦しみに耐えるよう

に強めるのです。主キリストは実に大きなみわざをなしてくださったのですから、彼らは次のよう

に思うべきです。わが主よ。あなたは、なんら強制されないのに、わたしに仕えてくださったので

すから、こんどは、わたしがあなたに仕えないはずがありましょうか。キリストは純潔で罪がなか

ったのに、ご自分を低くして、わたしのために血を流し、わたしの罪を消し去るために死んでくだ

さった。そうだとすれば、わたしが主をよろこばせるために、ほんの少しばかりも苦しまないこと

があろうか。このように考えてきて心が動かされない人があるとすれば、それは石の心というもの

です。主が先頭に立って進まれる時、しもべはたしかに従います。

 それゆえ、パウロは、「このためにあなたがたは召されたのである」と言っております。「この

ために」とは、なにをさしておりますか。それは、キリストと同じく、不正を耐え忍ぶことです。

パウロはこのように言っているかのようです。あなたがたがキリストに従おうとするならば、不正

を受けた時、不平不満を言ってはならない。むしろ、忍耐と寛容をもって苦しみを受け入れなさ

い。キリストは罪がなかったが、あらゆることに耐え忍ばれたからです。

 人々があなたがたを傷つける時、あなたがたは、つぶやいたり腹を立てたりすることなく、むし

ろ、キリストに似たものとされたことを感謝し、神をほめたたえるべきです。

                             ペテロ第一の手紙講解