なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(234)復刻版

 昨日は、しばらくぶりで鶴巻で一日のんびりと過ごしました。7月20日の土曜日に岩手の奥中山に出か

けてから、22日月曜日の夜には帰ってきたのですが、7月10日の控訴審判決報告集会の発言のテープ起こ

しがあり、先週はそれに追われました。支援会世話人代表の関田先生の挨拶と4人の弁護士の発言も、昨

日までにはすべて本人の手による修正原稿をいただきましたので、8月末に発行・発送予定の支援会通信

第8号の原稿準備も、あと少しを残して、はほぼできました。今日は、これから昼食をとってから、船越

に移動します。

 さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信(234)」復刻版を掲載します。
 


          黙想と祈りの夕べ通信(234[-25]2004・3.21発行)復刻版


 この日の黙想と祈りの夕べが始まる前に早くから一人の方が来ました。一度午後4時頃に来た方で、そ

の時は伝道師が対応し、伝道師が黙想と祈りの夕べのことをお知らせしていました。集いの前後にその方

とお話をしました。生活保護を受けている方でしたが、今までいたところがどうしても自分には合わない

ので出てしまい、今は野宿していて、大分食べていないということでした。翌日伝道師と寿の日雇い労働

者組合に相談に行く約束をして、その日はファミリーマートでお弁当を買い、その方に差し上げて別れま

した。翌日伝道師がその方と一緒と寿の組合に相談に行った報告を火曜日の打ち合わせの時に聞きまし

た。組合の方が行政に問い合わせてくれたところ、3月の生活保護はその方に支給されているということ

で、4月にならないとどうにもできないということで、4月になったらもう一度相談に行くということで

別れたということでした。私も伝道師もこの方が何とか持ちこたえて道が拓かれるようにと祈る思いでし

た。この方のように生活保護を受給している人を対象に住居を提供して共同生活をするホームが、NPO

法人によって各地に出来ています。けれども中には悪質なホームもあるようで、一度入ってもすぐ出て来

るというケースも増えている状態です。

 この日の黙想と祈りの夕べの分かち合いでは、一人の方からの発言がありました。この集いに出席する

前にテレビで世界のニュースを観てきた。そのニュースの最後には世界の子どもたちのことが取り上げら

れた。その国その国の厳しい状況の中でも子どもたちはみな輝いて見える。アフガニスタンの子どもたち

が大きくなったら人のために、国のために働きたいと云って居る姿が映っていた。反面日本の国の平和と

言われる現在の状況で、経済的にも恵まれていて、テレビに映る子どもたちははしゃいでいるが、自分が

将来何になりたいかに答えている子どもたちの目つきは、アフガニスタンのような厳しい国の子どもたち

とは違う。日本の社会では子どもたちの命が大人によって損なわれていることも多く、子たちの中にも自

分ひとりくらいいなくてもという思いが起り易いのではないだろうか。そんな中で自分に出来ることは何

かを考えさせられている。日曜学校の子どもたちが信頼と希望をもって生きていくことができるようにと

祈る気持ちで一杯である。



        「隠された惠み」(『ルターによる日々のみことば』より)


 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、

 いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あな

 たの願いどおりになるように」

                                マタイ15:27-28


 この女の信仰は実にりっぱなものではありませんか。彼女はキリストご自身のことばによって、キリス

トをとらえたのです。主は彼女を犬になぞらえました。ところが彼女はそれをそのまま認め、主が、犬な

らばどこまで世話することができようか、といわれたその限界までお願いすることで満足したのです。主

はとらえられました。どんな犬でも食卓の下のパンくずは食べることができます。それは当然の権利で

す。それゆえ、主は彼女に心をかけられ、願いどおりにしてやりました。そこで、彼女はもはや犬でな

く、イスラエルの子となったのです。

 この物語が聖書にしるされているのは、神が恵みをどれほど深く隠されているかを明らかにし、わたし

たちを慰めるためです。そして、わたしたちの主に対する感情や思いによって主を判断するのではなく、

みことばによって主を判断するためです。ここでキリストのすがたはきびしく見えますが、彼女に対する

「否」ということばによって決して最終的なさばきをなさったわけではありません。主の答えが「否」と

ひびいても、決してそれは「否」でなく、不定であるということです。

 わたしたちの心が「否」以外のなにも聞かなくても、それは「否」そのものではないのです。それゆ

え、あなたの心からいっさいの疑い、不安のおもいを取り去り、しっかりとみことばに信頼し、「否」の

上でも、下でもよいから、深く隠されている「しかり」をつかみとり、女がキリストの正義を堅く信じて

実行したように、それにたよりなさい。その時、あなたはみことばによって、主をとらえ、勝利を得ま

す。

                                 1525年の説教から