なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(112、復刻版)

 今日も「黙想と祈りの夕べ通信」(112、復刻版)を掲載します。

 この黙想と祈りの夕べ通信は、10年半くらい前に出したものですが、この年の9・11に「同時多発テロ」が起きました。あのときのテレビで観た飛行機が激突して倒壊していくツインビルの映像は衝撃的でした。昨年の3・11の東日本大震災での大津波が街をのみ込む映像も大変衝撃的でした。1995年1月17日の阪神淡路大震災の時の至る所から火の手があがっている神戸の映像も。おそらく死ぬまでこれらの映像は心に焼き付いて忘れることはできないでしょう。  

        黙想と祈りの夕べ(通信 112[-7] 2001・11・18発行)

 昨日から今日にかけて、一人暮らしのお年寄りに昼食を出し、歌をうたったりする元気会という集いのお手伝いをした。歌うときも楽しくでき、自然に溶け込め、今までにない喜びであった。この二日間の経験は、今まで余りにも自信がなかった自分には、大変良い時であったと、一人の姉妹の発言がありました。

 続いて私は、9月11日の事件以来の自分自身の揺れと、いろいろな方から支えられたことを感謝していることを述べた。去る日曜日にも手術後入院中の青年から電話があり、病院を見舞った。すると、ある人から、先生が大分落ち込んでいると聞いたので、心配して電話したというのである。病人から励まされる思わぬ経験をして、びっくりした。いきさつを説明して、大丈夫だから心配しないでと言い、あなたも大事にするようにと言って別れた。彼女は翌日退院とのことである。今回のことを通して、もう一度聖書を読み直したいと思っている。自分にとっては、いろいろなことを整理して考える時になったように思う。感謝。

 もう一人の姉妹は、今日日曜学校でクリスマスの準備の分級があった。ペイジェントの準備である。自分としては、ああー、またあれが始まるのかと、その日出席していた子どもたちも少なく、不安であった。余り積極的に台本を読まずにこの日を迎えていた。他のスタッフの方が、歌の指導をしてくれた。子どもたちの役決めになった。ハーイと積極的に手を挙げる子ども、わたしは残った役でいいという子どももいる。博士がどうして今回は出てこないのかと言う子どももいた。子どもたちは生き生きとクリスマスを待っていることを知って、自分の中にあった不安が吹き飛ばされる思いがした。そのような子どもたちの熱心さに、自分も準備していかなければならないと思わされた。大人は年末に向って、クリスマスだけでなく、いろいろなことがあるので、子どものようにクリスマスに集中できないところがある。子どもたちから励まされた思いであると。

 以上が11日(日)の「黙想と祈りの夕べ」の分かち合いでの発言である。

 この日午後に、名古屋時代に娘の同級生で、私が紅葉坂教会に来てから、彼女の結婚式の司式を岐阜まで出掛けたことのある姉妹が、夫と子どもと一緒に家族で横浜に来たというので、牧師館にも寄ってくれた。連れ合いがJR東海に勤めていて、転勤があると言う。まだいつかははっきりしていないが、もし転勤したら、一緒に行った方がよいのか、自分と子どもは名古屋に残って、夫だけ単身赴任してもらった方がよいのか、今から迷っていると言うのである。彼女はおとなしく、転勤先で新しい人間関係を築くのに不安があるようだ。私は、子どものことを考えれば、両親一緒の方がいいように思うと答えた。

 今家族の形態も、夫婦の形態も、私たちの世代とは随分違ってきているように思われる。夫婦の場合で言えば、お互いが夫婦の絆の中で、傷ついたり、支えられたりという関係において成長するという側面がどれだけあるのだろうか、と思わされてならない。私は、結婚式の司式をするときに、必ずと言っていいくらい、第一コリント13章の愛の賛歌から、忍耐は、聖書では我慢するというのではなく、面と向かい合うことであり、関係に自分を賭けることだという話をすることにしている。そして、関係に自分を賭けるときに、自ずから与えられる力が愛であると。関係に自分を賭けることは、相手を傷つけ自分も傷つくこともあるが、その中から得難い何ものかが与えられるように思えてならない。

          
          「新しいからだ」(『ルターの日々のみことば』から)

   肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだ   もあるわけである。(第一コリント15:44)

 わたしたちは、ただこの着物を着ていることができ、神の子の死によってわたしたちを包み、その義によってわたしたちをおおい、まとうことができるならば、このように死に、あわれな罪人として天に移されるであろうことを希望しつつ、今生きております。わたしたちが主のうちにしっかりと立ち、動かないならば、それがどのような名称のもので、どのような性質のものであっても、小さな火花のようなものであり、わたしたちの義は海のようであり、わたしたちの死はつかの間の夢かうたた寝にすぎなくなります。さらにわたしたちが非常な不名誉をもって葬らねばならないわたしたちの恥も、「イエス・キリストの義」と呼ばれる栄光によっておおわれます。この義によってあまりに美しく飾られますので、たとえ太陽でもそれを見ると、はじらうほどであり、愛する天使たちも目をはなすことができないほどです。このようにすばらしい美しさによって着飾られますので、死やその他のわたしたちのからだに属するもろもろの汚れは、全く取るに足らないものとなります。
 
 それゆえ、わたしたちはキリスト者の死を特別に見、死んだキリスト者を、死して葬られた者として数えてはなりません。わたしたちの五感にはそのように見えますし、またその五感の訴えに引きずられている間は、わたしたちは害を受けます。ですからわたしたちは忠実にパウロのことばに耳を傾けなければなりません。すなわち、キリストとともに眠っているのであり、やがて神はキリストとともに彼らを導き出されるのです。このみことばによって自分を慰めることを学びなさい。このことだけを思いなさい。この慰めで足らないと思うものは、ほかにどんな慰めも喜びも見いださないからです。
 
                                    (1532年の説教から)