なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(111、復刻版)

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信」(111、復刻版)を掲載します。

 下記に出て来るOさんという方は、私が2011年3月末をもって辞めました紅葉坂教会のオルガニストを長くされた方で、地域では合唱の指導もされていたようです。ピアノも教えていました。私が紅葉坂教会を辞める1年前くらいに90数歳で帰天しました。私が葬儀の司式をしましたが、葬儀後Oさんご夫妻にはお子さんがいらっしゃらなかったので、養子縁組をしておられた甥の方から、0さんの家にありました沢山の楽譜とピアノを教会に寄贈していただきました。

 Oさんは晩年磯子に一人で犬と生活していましたが、犬の散歩中に自動車と接触し脳外科病院に緊急入院しました。その頃すでに認知症が少し進んでいましたが、病院での治療が一段落した後、千葉県の上総松岡という、木更津から久留里線で1時間ほどのところにある高齢者のコロニーのような有料老人ホーム、特別擁護ホーム、老健施設、そして病院のあるところに行き、そこで最後を迎えました。

 私は年に3,4回お訪ねしていました。最初の内は、まだアクアラインができていませんでしたので、横浜から横須賀線総武線直通の君津行きに乗って、約2時間で木更津駅に着き、それから久留里線で上総松岡まで1時間かけていきました。久留里線は昼間は2時間に1本くらいしがありませんので、乗り遅れたら大変でした。アクララインができてからは横浜からバスで木更津駅まで50分でいけるようになりました。0さんのお父さんは牧師でした。私は一人一人の存在にその人固有の個性と人生を感じてきましたが、このOさんも個性の際立った忘れられない一人です。

         黙想と祈りの夕べ(通信 111[-6]2001・11・11発行)

 先週千葉の上総松丘にある芙蓉病院に、Oさんを見舞いました。今年の春に伺ったときよりは、元気そうに見受けられました。讃美歌を歌い、「知ってますか」と声をかけますと、はっきりうなずきます。あわてて出てきたので、礼拝会衆の賛美をテープにしてきたものを持って来て、聴かせてあげればよかったと反省しました。次に来るときには、テープを持ってきますねと約束しました。Oさんは以前同じ敷地内にある老人保健施設「きゃらの樹」の個室にいらした時には、大好きなので犬のぬいぐるみがいくつかありましたが、今の所は二人部屋の病室ですので、ぬいぐるみが一つだけベットの上にあるだけでした。

 そして、Oさんはその犬のぬいぐるみの首や顔のところを手で撫でていました。Oさんという方は、お元気な頃から明るい楽観主義者的なところがある方で、ある種突き抜けたところが感じられました。物事に余りこだわらない方に思えます。認知症が進んでいるとは言え、委ね切っておわれるようで、見舞う私の方も気持ちを楽にさせられます。

 木更津から久留里線で久留里止まりの電車でしたので、病院までタクシーを使いました。そのタクシーの中で運転手さんと話しましたが、それは久留里という昔3万石の城主の城下町でも、被差別者がいてそれまではほとんど誰か分からなかったが、同和問題が行政で問われたとき、この町でも役所に押し掛けてきて、それから分かるようになったということでした。運転手さんは、いわゆる「寝た子を起こすな」という考え方のようでしたが、私は、それを聞きながら、この山の中の小さな町にも同和の問題があるのかと、差別の根深さを改めて感じさせられた思いでした。

 以上の私の発言に続いて、一人の姉妹が先週障がい児ボランティア講座が終わって、その前に実習ということで施設を見学した。その感想を話し合った時に、目が開かれた、よかったという感想が多かったが、一人の男性で仕事をリタイアしたばかりの人は、私には障がい児ボランティアはできない。男には無理だ。自分はサラブレッドの馬に乗っているが、馬の方がよっぽど言うことを聞く。また、この種のボランティアは無償ではなく、有償でなければならない。何の喜びがあるのですか、との男性の発言に対して、一人の女性の方がきっぱりと、あなたはお止めなさい、止めた方がよいですね、とおっしゃった。そ
の方は、自分の夫を見ていてあなたと同じように障がい者を理解できないし、ボランティアは無理だと思うから、あなたを責めるわけではないが、お止めなさいと。

 ほとんどの人は、ボランティアにはこんな嬉しいことや男性でも出来ることもあると言って、分かってもらおうと、自分の方にその男性を何とか引っ張ろうとする。自分はその場面にいて、自分自身の心の中にもその男性に対する憤りのような思いがあったので、はっきりお止めなさいと言われた方の発言を聞いて、目が醒めるような経験をした。それは、自分はその男性の存在を許していない、その人の今のありのままの姿を認めていないのではないかということである。自分の中にはその男性を裁く気持ちがどこかにあるように思われた。あなたは止めた方がいいですよ、という一人の女性の発言から、みんな一緒にという思いでいた自分の甘さ、自分の狭さを感じさせられた。今後人を裁く前に、違った存在を正しく認めつつ、共生していく道を求めたい。

 もう一人の姉妹は、今旅館の女将になっているかつての自分の同級生を千葉の白浜に訪ね、彼女が不思議と信仰をも求めていることを知ったこと、また二人でもう一人の同級生を訪問してきた貴重な体験を話してくれた。

     「さまざまな試練の中の喜び」(『ルターによる日々のみことば』より)

  今しばらくのあいだは、さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが、あなた
  がたは大いに喜んでいる。                      第一ペテロ1:6

 ここで使徒ペテロは、キリスト者が、この世でどのような状態におかれるかを示しております。いと高き神のみ前では、彼らはやさしく愛される子らであり、天の嗣業と祝福を確信しております。ところがこの世では悲しみ、悩み、捨て去られるだけでなく、悪魔と悪しき世から多くの試練を受けなければなりません。いったい彼らが攻撃される原因はなんでしょうか。

 彼らの最大の罪とは、キリストを信じ、キリストにあって神が全世界に示された言いようのない恵を讃美し、ほまれを帰せるからなのです。すなわち、キリストのみが、わたしたちを罪と死からあがなうことができ、正しく祝福されたものとすることができることを信じるからです。また、人間の理性は、その自由意志と、その力と、そのよき働きによっては神の恵を受ける準備をすることができず、ましてや、永遠の生命に値することはできないことを信じるからです。理性は、たとえどれほどの栄光に輝く美しいものであっても、その思いと行いのすべてを尽くしてなお神と和解することはできず、かえって神をいっそう怒らせます。なぜならそれはすべてのことを外から取りあげ、しかも、主のことばといましめに反対し、主の約束を軽蔑し、自分の考えによってなにか特別のわざを選ぶからです。

 さて、このように信じるとき、火が燃え上がります。世はそのよい意見と信心を受け入れず、受け入れることができません。その聖徒らしさとすべての驚嘆すべきわざは神の前になんの価値もないものとして罰せられ、罪に定められなければなりません。それゆえ、彼らはみことばをのべ伝え、あかしをする人を打ち、迫害し、殺し、しかも神に奉仕していると考えます。それゆえ、信仰は心の中で夢見るようななにかの思想ではありません。そしてそのために悩みが彼を取り巻きます。これこそ、ペテロが「今しばらくのあいだは、さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが」と言った理由です。  
                                  
                                (ペテロ第一の手紙講解)