なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(29)

1月9日(日)降誕節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 

                            (ヨハネ3:16)             

③ 讃美歌   475(あめなるよろこび)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-475.htm

 

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編36編6-10節(讃美歌交読詩編39頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙6章15-23節(新約281頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     432(重荷を負う者)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-432.htm

⑨ 説  教    「解放された生」        北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 私たちはその人に説明したいことがあって手紙を書くことがあります。そしてその説明を一つの譬えを用いてした後に、それでは十分相手に伝わらないのではと思い、続けて別の譬えを用いて説明するということがあるのではないでしょうか。

 

  • 実は、パウロはロマ書6章1-14節で、洗礼を譬えにして、キリスト者は「罪に死んで、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだ」(6:11)と述べているのですが、どうも今自分の述べたことが、ローマの教会の人たちに十分に伝わっていないのではないかと思ったのではないかと思われます。続く6章15以下でも殆ど内容的には6章1-14節で述べたことを繰り返しているからです。

 

  • 6章15節と6章1、2節を比べて見ますと、6章15節は6章1、2節の言い換えのように思われます。

 

  • 15節(田川訳)≪ではどういうことか。我々は律法のもとではなく恵みのもとにあるのであるから、罪を犯そう、ということになるのか。まさか、そんなことはありえない≫。
  • 1、2節(田川訳)≪では、何と言おうか。恵みが増すために我々は罪にとどまろう、とでも。まさか、そんなことはありえない。罪において死んだ我々が、どうしてまだ罪の中に生きるなどということがありえようか≫。

 

  • 罪を犯そう」(15節)と「罪にとどまろう」(1節)の違いはありますが、≪我々は・・・恵みのもとにあるのだから、罪を犯そう≫とか、≪恵みが増すために我々は罪にとどまろう≫と考えるキリスト者がいるとしたらという前提で、パウロはこの問いを立てています。もしかしたら、そういうキリスト者がいたのかも知れません。私たちの中にも、ここまで極端とは言えませんが、信仰と行為を分けて、信仰が第一義、行為は第二義的な問題であるという考え方をする人がいます。

 

  • 昨年のクリスマスに私がかつて牧会した名古屋の教会から、寄せ書きのあるクリスマスカードと教会だよりが送られてきました。ちょうどその頃船越教会でも教会だより「船越の丘から」第16号が発行されましたので、年末の時間がある時に、この二つの教会だよりを読み比べて見ました。名古屋の教会の教会だよりは、すべて教会内部の記事でした。社会との接点が感じられる記事は皆無でした。教会は社会から閉ざされた内輪の世界という風に感じられました。それに対して船越教会の教会だよりには、皆さんも読んでお分かりのように、社会との関りで私たちキリスト者は何をしなければならないかという問題意識が反映されている記事があります。

 

  • 私が2009年に新教出版社の小林望さんに勧められて出した『自立と共生の場としての教会』という本は、実は私が名古屋の教会で牧師をしていた18年間で学んだことが基になっています。この本では信仰と行為を分離して、信仰を第一義、行為を第二義とする考え方を批判し、信仰は行為を生み出し、行為は信仰を表現するという、信仰と行為が相即していることを強調しています。

 

  • 信仰は信仰、神と私たちとの間の関係、行為は行為、私たちの他者との人間関係で、二つは別の問題であるのでしょうか。もしそうであるとすれば、あの「馬鹿げた問い」である≪我々は・・・恵みのもとにあるのだから、罪を犯そう≫とか、≪恵みが増すために我々は罪にとどまろう≫という問いも成り立つかも知れません。

 

  • この問いが成立すれば、今の資本制社会の中にどっぷりつかって生活の糧を稼ぐことに何の矛盾も感じず生き、それでいて自分はキリスト者であると自負するあり方も成り立つことになります。宗教としてのキリスト教には、それもあり得るかも知れません。

 

  • しかし、私たちは宗教としてのキリスト教を信じているのではなく、イエスの福音を信じているのではないでしょうか。イエスの福音が、この馬鹿げた問いを肯定することは全くありません。≪まさか、そんなことはありえない≫のです。

 

  • パウロはこの問いを立てた上で、≪まさか、そんなことはありえない≫と否定し、14節に書かれていたような恵みのもとに立っているものは、まさにそのことによって一定の秩序のもとに、主人と奴隷という奉仕の関係に、移されているということを前面に押し出して述べています。

 

  • 16節(田川訳)≪それともあなた方は、あなた方が従うために自分自身を奴隷としてささげた相手に対しては、その従っている相手に対しては自分は奴隷なのだ、ということを知らないのか。すなわち罪の奴隷であって死にいたるのか、あるいは従うことの奴隷であって義へといたるのか≫。(「従うことの奴隷」は新共同訳では「神に従順に仕える奴隷」と訳されています)。

 

  • 私たちは自分が奴隷だとは思っていないと思いますが、パウロの手紙の宛先であったローマの教会の人たちは、おそらく殆どの人が古代ローマ社会の中では奴隷階層だったと思われます。ローマ社会では自由民はわずかで、社会全体が奴隷制で成り立っていて、奴隷階層の人たちはローマに敗れた国の人たちでした。古代では戦争に負けると、負けた国の人たちは、戦争に勝った国に連れていかれて奴隷にさせられたのです。

 

  • おそらくローマの教会に集まっていた人たちも、ユダヤ人をはじめ殆どの人がそういう人たちだったと思われます。その人たちにパウロイエス・キリストの福音を説くに当たって、主人と奴隷の関係になぞらえて説明したのは、ある意味で当然だったと言えますし、それが最もよく読者であるローマの教会の人たちに訴える方法だったのでしょう。

 

  • 16節には、人間は、その形はいずれであるにせよ、一つの主権のもとに立っていると語られています。「罪の奴隷」であるか、「従うことの奴隷」(神に従順に仕える奴隷)であるか、そのどちらかであると言うのです。

 

  • 罪と従うこと(従順)は第一には、私たちの行為であるのではなく、行為である前に、私たちをそれぞれの仕方で支配する力です。

 

  • だが私たちキリスト者とは、幸いにして「罪の奴隷」から解放されて、「従うことの奴隷」の道に移された者であると、パウロは17節、18節で述べているのです。

 

  • 神に感謝すべきことに、あなた方はかつては罪の奴隷であったが、あなた方がそこへと引き渡された教えの型に心から聞き従って、罪から自由にされ、義に仕える奴隷となったのだ≫。

 

  • 私たちは、福音が語られ、聞かれたことにより、福音に心から従って、私たちの実存全体をもって従順になり、従順の僕になったのである。それは、私たちが罪から解放され、義の僕とされたことを意味するのだ、とパウロは言っているのです。僕〔奴隷〕にされたと言うのか。この僕(奴隷)に譬えたことが気になったのか、ここでパウロは≪あなた方の肉の弱さの故に、私は人間的な言い方をしているのである≫(19節a)と言葉を加えているのです。

 

  • バルトは、<本来的に言えば、この新しい状態において問題なのは、奴隷状態ではなく、むしろ自由なのである。だが、いずれにせよ、われわれがもはや罪の僕でないという事実は、われわれが今や事実、ほかの主権のもとに、新しい国のうちに、生きており、「自由の僕」であるという点において、明らかにされるのである。――そのことこそ、パウロがここで不本意ながら「人間的な言い方」で語ろうとした本来的な事柄である>と言っています。

 

  • あなた方はかつては自分の肢体を汚れと不法に仕えるものとして捧げて不法へといたったのであるが、今や同様に、自分たちの肢体を聖化へといたる義に仕えるものとして捧げなさい≫(19節b)。

 

  • そして20-22節において、(かつてと今が)対照的な形で語られるのです。

 

  • あなた方が罪の奴隷であった時は、義に対して自由であった。だがその時にあなた方は、いかなる実をもたらしていたのか。あなた方は今ではそれを恥としているのであって、そういうものの究極は死である。だが今やあなた方は罪から自由にされて神の奴隷となり、聖化へといたるあなた方の実を、すなわち究極的には永遠の生命へといたる実を、持っている≫。

 

  • <あなた方は、かつては一つの主権のもとに立ち、今また一つの主権のもとに立っているのだが、かつては義から自由であった。すなわち、あなたがたは、その必然的な恥ずべき結果が罪の実としての死であるような恐るべき自由の中にいた。さて、あなた方は今もう一度自由なのであるが、今度は、神の僕となったことによって、まさに罪から自由なのである。そして、その結果、あなた方は、神の決断と、それによって打ち立てられた秩序により、永遠の生命に向かって急ぐ、聖められた人間となっている。かくして、かしこにおいて死がその報酬、賃金であり、ここでは永遠の生命が恵みの賜物である(23節)。あなた方は傭兵でも日雇人でもなく、恵みの賜物を受け、また持っているものである。この賜物を受けること、また持つことこそ、あなた方の存在であり、そしてこのこと自体が、あなた方が生かされている秩序、従わねばならなぬ命令法である。なぜなら、あなた方は決してこの秩序の外に存在することはないからである。そういうわけであるので、福音はこのような観点のもとにおいても必然的に、またそれ自体、あなたがたの聖化である>(バルト)

 

  • 内村鑑三は『羅馬書の研究』のこのローマ書6章15節以下のところで、「信仰生活とは多くの人の思ふ如く自己の意力を揮ひ起して克己奮闘以て悪に克ち善を行ふ生活ではない、或者に引きづられて悪が自から厭はしくなり、善が自から慕はしく、喜ばしく、行なわれる生活である。自分の意志に因るのではなくて、或他の意志に支配されて営む所の生活である。是れ即ち他の者の奴隷たる状態ではないか。即ち基督者は「義の僕(奴隷)」である。義の奴隷たるに至って信仰が真の信仰になったのである。/今や人の厭ふ語にして『奴隷』という語の如く甚しきものではない。何者にも従はず何者をも主とせず凡ての権威を否認するといふ矯激なる思想は現代の流行物である。併し我等は義の僕、神の奴隷たるを以て理想とする。全然己を空しうして神に隷属して了はねばならぬ。自分の意志が全くなくなって聖意のまゝに引き廻はさるのが真の信仰生活である。一々の事件に対して我意志を用ひて判断して処理すると云ふのではない。自然の傾向として又習慣性として、悪が厭はれ、善が慕はれ、事の判断が行はわれてゆくのが、神の僕たるものの日常生活である」。

 

  • 主イエスを信じる信仰は、私たちが直面するさまざまな出来事において、その都度イエスならばどうされるだろうかを問い、イエスに従って生きる、「信じて歩みを起こす」生活です。

 

  • 罪の代価は死である。神の賜物は、我らの主キリスト・イエスにおける永遠の生命である≫(23節)。

 

祈ります。

 

  • 神さま、新しい年に初めての会堂での礼拝を行うことができ、感謝します。しばらく落ち着いていました新型コロナウイルス感染が、デルタ株からオミクロン株に変わりつつ、ここ数日急激に拡大しています。また人との接触をできる限り避けなければならなくなると思われます。この状態が三年目に入りましたが、どうか私たちが早くコロナと共存できる状態になれますように。
  • 今回は日本の米軍基地が感染拡大の原因の一つになっています。そのために特に沖縄と岩国のある山口と広島が犠牲になっています。日本の国が平和憲法に基づいた武力によらない世界平和をめざすようになりますように。
  • 私たちキリスト者が神の僕として生きることができますように、私たち一人一人をお導きください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     529(主よ、わが身を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-529.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。