今日は、牧師室から(35)を掲載します。12年前に教会機関誌に書いたものです。
昨夜神奈川教区の常置委員会があり、私はオリエンテーション委員会委員長と寿地区活動委員会委員長として陪席しました。その後有志の方々と会食し、この日は船越に帰りました。明日私の裁判支援会の通信第4号と12月3日の第二回口頭弁論のチラシを明日発送作業をしますので、今日はその準備を船越でします。
牧師室から(35)
昼の聖書研究は、この1月をもって、「ヨハネの黙示録」が終わります。この学びに参加されて
いる85歳を過ぎた兄弟が、年賀状で聖書研究に出て「黙示録が分かりました」と書いてくださいま
した。「分かった」というのは、ヨハネ黙示録がどういう文書なのかということが分かったという
ことではないかと思います。ヨハネ黙示録が語るメッセージは、これkらその時々に汲み取ってい
かなければなりません。難解な言葉は表現に最初から躓いて、ヨハネ黙示録に信仰の書として向か
い合う前に読むのを挫折してしまうという場合が多いと思われますが、今回のヨハネ黙示録の学び
では、そのハードルは越えられたように思います。
2月からは、聖書研究に参加しておられる諸兄姉との話し合いで、「ローマの信徒への手紙」を
学ぶことになりました。私にとりましても、パウロ書簡を取り上げるのは、久しぶりになります。
今までの聖書研究のような一方的に私が話し、後で質問を受けるという形から、参加型の形に少し
ずつ変えていきたいと思っています。できれば、そのようにして学んだローマの信徒への手紙を、
何れ主日礼拝のテキストにして礼拝説教で語るようにしてみたいと考えています。そうなれば、礼
拝説教の準備の一環として聖書研究を位置づけることができますし、諸兄姉との対話による聖書研
究から得たインスピレーションを説教に結びつけることもでき、説教の共同作業にもつながるよう
に思うからです。
2000年1月
先日、昨年2月17日に30歳8ヶ月で二人の小さな男の子と夫を遺して亡くなったM姉の一年の記念
式が、家族の方々が集まって行われました。その記念式の礼拝で、私は何か話さなければなりませ
んでしたが、なかなか言葉ににならず、生前の彼女との出会いや関わりを中心に、その関わりにお
ける私自身の悔いについてお話しました。それは、他者のために自分の時間をつくりだすというこ
との怠慢です。彼女が亡くなった前年の9月ごろから、間接的に教会員の方から、私は、彼女が下
の子どもさんのことで悩んで、体調を崩しているということを聞いていました。そしてその年の12
月に彼女は入院しました。クリスマスが終わって、私は一度だけ面会に伺いましたが、彼女に生前
お会いしたのは、その時が最後でした。彼女の記念式の前に、たまたま同じように夫の一年の記念
式を行うI姉から、カトリックの神父の作という「いっぱいのお茶」という題の詩が書かれた絵葉
書をいただいていました。
「いっぱいのお茶を飲みましょう/どうして言えなかったのでしょう/自分の時間が欲しかった
ために/彼の苦しみにあずかるのを/先送りにしてしまいました/苦しい日々を送っている/彼の
辛さを小包みにして/あてのない時へ送ってしまいました/「ザアカイ、急いで降りてきなさい/
今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と/言ったあなたの言葉が鋭く刺さります/いっぱいのお
茶がこんなにも重いなんて」
心にじーんとくる詩です。
2000年2月
グローバリゼイションという言葉がよく語られるようになっています。『朝日キーワード,200
0』によれば、この言葉は「日本語で言えば、『世界化』や『地球化』で、従来のインターナショ
ナリゼイション(国際化)よりも強い意味を持つことが多い」とありますこの言葉には「世界は一
つ」という夢の実現を思わせる響きも感じられて、おおかた肯定的に受け止められているのではな
いでしょうか。
けれども、このグローバリゼイションの破壊的な側面への警戒が必要なことを、最近読んだ『教
会であること』という本から教えられました。この本を書いたコンラート・ライザーは、「この
『世界は一つ』という統合されたシステムからますます疎外されてゆく人々、…その周辺へと追い
やられ、生きるのが精一杯の人々」の存在に注目します。そしてこのように語っています。「地球
を一つの統合された全体としてみる見方は、神のパースペクティヴであって、人間は祈りと賛美の
姿勢によってのみそこに立つことがゆるされるのです。人間もまた、神の創造の一部なのです。人
間は有限性という限界の中に置かれているのです。究極的には、死という限界です。限界の中をど
う生きるのかを自立と連帯の中で学んでゆく、そのことを始める以外にグローバリゼイションの進
展の中に潜んでいる破壊的な諸力に人類が対抗する方法はないのではないでしょうか」と語ってい
ます。美しい言葉の持つ危うさに惑わされないようにしたいと思います。
2000年3月