なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信復刻版(150)

      
        黙想と祈りの夕べ通信復刻版(150[-45]2002.8.11発行)

 7月末に青年会のバーベキュー大会がM宅で行われました。私も参加しました。大変暑い日で、火の係

りを担当しお肉を焼きながら、そばにいた高校生のMさんの息子さんから神についての質問を受けまし

た。突然でしたが、その質問の内容は、神がいるならなぜこの世の中に不公平があるのかというもので

す。その質問を聞きながら、私は自分も高校生の頃に同じようなことを考えたことがあったことを思い出

しました。私は高校3年のクリスマスに洗礼を受けました。教会に行き始めたのは洗礼を受ける1ヶ月半く

らい前からです。それまでは、中高生の科学実証主義とでも言いましょうか、科学信仰に立っていて、キ

リスト教をはじめどんな宗教にも嘘っぽいものを感じていました。高校3年生の秋までです。私は中高時

キリスト教主義の学校でしたので、友人の中には高校1年生の頃にすでに洗礼を受けていた人も2、3

人いました。神についての議論になる時には、科学実証主義の立場の方が強いところがありました。友人

との論争では、自分の方が有利に思えたことがありました。けれども、洗礼を受けたときには、神を客観

的な対象として見るというよりも、イエスの出来事や生涯を通してそこに神の働きを感じるようになって

いました。「私にとって」という実存的な捉え方に変わっていったように思います。Mさんの息子さんに

は、そんな自分の体験を話し、神について考えるときには、聖書では旧約の預言者のような人物をとおし

て、また新約聖書ではイエスさまを通して、神は私たち人間や社会に関わっているのではないだろうかと

いうことをお話ししました。若い方が試行錯誤しながら歩んでいるのを、温かく見守っていきたいと思い

ました。

 上記の私の発言に続いて、一人の姉妹が一昨日から昨日にかけて当教会で行われました神奈川教区の青

年夏の集いに参加しての感想を話してくれました。その集いの中で、「イエスを悲しませる行動をとった

ことがあるか」という問いかけがあった。その問いにすぐには思い当たることがなかったが、自分の行動

を振り返っているうちに、自分では気づかないが、人を傷つけたり悲しませていることをしているように

思えてきた。自分がこの問いに対してすぐに思い当たることが浮かんでこなかったのは、自分を振り返る

ことが少なかったからではないだろうか。これからは自分の行動を常に振り返り、責任を持てるようにし

ていきたいと感じたと。

 またもう一人の姉妹から以下のような発言がありました。今日は礼拝で平和について真剣に考える機会

が与えられた。説教で紹介された1947年の中一の社会科の教科書にある「拳法のはなし」では、日本の戦

後社会は平和を求めてはじまったことを改めて思わされた。自分も戦後のまだつぎはぎのある洋服を着て

学校に子供たちが来ていた頃の世代で、代用教員も多く、そういう方が生きることを真剣に伝えてくれ

た。命あることを喜び、勉強をそっちのけにして遊んでいた。中学を出て親元を離れ、住み込みで働く人

もいた。自分の家にもそういう人がいた。みんな経済的にもそれほど豊かではなかった。テレビもみんな

の家にはなく、お隣のを見せてもらうこともあった。みんな平和をよろこんで生き生きしていた。殺人事

件も少なかった。誘拐殺人という吉展ちゃん事件が起きたときには、みんなびっくりした。人が殺される

ということは大変なことだった。今は違う。殺人事件も頻繁に起こっているので、またかという感じであ

る。私自身は父が戦死し、小さい頃から教会に通い、教会の方に見守られて育ってきた。この社会に対し

て、自分は今まで何をしてきただろうか。自分の子供たちには命の大切さを伝えてきたが、お目出度く生

きてきたように思う。今日は聖歌隊で讃美歌21-371を歌った。歌いながら祈る気持ちだった。次の

子供たちに戦争のない世界がくることを祈りたい。自分の手の届くところから平和のために真剣に生きて

いきたいと思う。


     讃美歌21-371の歌詞

   1、  このこどもたちが 未来を信じ、
      つらい世のなかも 希望にみちて、
      生きるべきいのち 生きていくため、
      主よ、守りたまえ、平和を、平和を。

   2、  戦いあらそい ここかしこに、
      地をとどろかして 燃えさかる時、
      子らは泣きさけぶ 血を流しつつ。
      主よ、とどめたまえ、いくさを、いくさを。

   3、 「剣を鋤とし 槍を鎌とし、
      洪水のように 正義を流せ」。
      神のみ言葉は世界にひびく。
      主よ、教えたまえ、み旨を、み旨を。

   4、  このこどもたちが 未来を守り、
      生きるべきいのち 共に生かされ、
      平和をよろこぶ 世界を望む。
      主よ、祝したえ、大地を、大地を。



           「神とカイザル」(『ルターの日々のみことば』から)

    するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返    しなさい。       
                                  ルカ20:25


 聖書は、この世や、君主や、皇帝でなく、聖霊が神のことばによってさばくのであり、そして、この世

はさばかれ、刑罰をうけ、そのようなさばきに従わなければならないと言っております。しかし、この世

がわたしたちを支配し、罪に定める問題について、自己をさばき人とし、神のことばよりも偉いものと考

え、抵抗するならば、このようなさばきは罪に定められており、悪魔から出たものであると知らなければ

なりません。そのとき、わたしたちは反対して言わねばなりません、「わが君主、皇帝、この世よ、わた

しはあなたがたの支配下にある生命と財産については、あなたがた権威の下にあります。生命と財産につ

いては、あなたがたに従わなければなりませんし、また従いましょう。しかし、あなたがたがさばくこと

もできず、また、さばいてはならない問題、すなわち、わたしや他の被造物と同じように、みことばによ

ってさばかれなければならない、神に属する問題にまでふれようとするならば、そのとき、わたしはあな

たがたに従ってはならないし、従わないでしょう。むしろその反対に行動し、神に従い、みことばのうち

にとどまりつづけるでしょう」

 愛する兄弟たちよ。わたしたちは王や、君主や、大衆の名によって洗礼を受けるのではなく、キリスト

と神ご自身の名によって洗礼を受けるのです。またわたしたちは、王や、君主や、大衆と呼ばれるのでは

なく、キリスト者と呼ばれるのです。もし人が天にゆく道をどう示したらよいか知らなければ、魂を導く

という大それたこころみをなすことはできません。それができるのは人でなく、神だけです。それゆえ、

魂の救いに関する事がらについては、神のことばによる以外はなにも教えてはならないし、また、受けい

れてはなりません。
                             ヨハネ福音書16章の講解