なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(34)

 今日は「牧師室から(34)」を掲載します。

                 牧師室から(34)

 10月17日に私の前任の名古屋G教会で墓前礼拝があり、そこでT兄の納骨をしていただくことにしていま

す。T兄は今年1月に三重県菰野にある障がい者養護施設で召されました。彼の遺骨はその時以来私が預

かっていて、彼の遺志でG教会の墓地に埋葬されることになっています。当日は日曜日ですので、私の連

れ合いが彼の遺骨をもってG教会の墓前礼拝に行くことになっています。

 T兄は生まれた時から脳性麻痺で、20歳くらいまでは歩くことも困難だったそうです。その間校長先生

だった父親を亡くし、母親に世話されて生活していました。20歳頃に母親も亡くし、3人の姉たちが結婚

してそれぞれの生活をしていましたので、施設に入って自立の道を選びます。最初は随分厳しかったよう

ですが、持ち前の人懐っこさと明るさで、周りの人に支えられながら、職業訓練も受けて、旋盤の仕事を

するようになりました。けれども、その仕事中指を切断して旋盤の仕事はやめ、寮で生活しながら活版印

刷の仕事をするようになります。名古屋ライトハウスの印刷部でした。彼がそこで生活するようになって

しばらくしてから、私は名古屋のG教会に着任し、それ以来彼が召されるまで約20年間の彼との交わりを

与えられました。最後は全身が麻痺し、言葉も聞き取れなくなり、幻覚に苦しむこともありましたが、T

兄は1月13日に静かに60年の生涯を閉じました。この納骨によってT兄に対する私の最後の責任を果たせる

と、ほっとしています。
                                   1999年10月


 人間がバタバタ倒れて死んでいく戦場にいたら、一人ひとりの死を悲しむことも麻痺してしまうことで

しょう。もしその戦場に一人の兵士として私たちがいるとしたら、戦争による死者を悲しみ悼む自分と、

その戦争に参加している自分に矛盾を感じるでしょうか。私は、かつて日本人の兵隊がアジア諸国の戦場

でどうだったのだろうかと想像します。「きけわだつみのこえ」に収められている学徒出陣の青年の多く

は、その矛盾に苦しんでいたようにも思われます。けれども、圧倒的に多くの日本人兵士は、天皇制や国

神道・家族主義によるイデオロギー操作によって、文字通り戦争遂行の道具にさせられていたのではな

いでしょうか。

 私はこの頃、現在の日本社会の様相が、そしてそこに生きている私たちが、かつての日本の状況と精神

的には何ら変わらないのではないかと思えてなりません。自分の周りで身近な人たちがバタバタと倒れて

いるように思えるのです。精神を病んだり、仕事を失って路頭に迷う人がいたり、こどもや女性、高齢

者、外国人にはますますきつい社会になっていくようで、この日本社会はまさに戦場に思われるのです。

 かつての戦争で兵役拒否をした人はほとんどいませんでした。戦争を批判した人も少数でした。社会の

滅亡を予測し、その先を創造的に生きた人も、いてもわずかだったでしょう。現在はどうでしょうか。そ

んなことを考えながら、さて、お前はどうなのかという声におそれを感じています。

                                  1999年11月


 「居場所がない」。これが、現在の子どもたち、青年たち、そして中高年の特に男の人たちがかかえて

いる問題の一つのようです。様々な場所はあります。学校、家庭、職場などです。けれども、どこもここ

も権力の支配力が強く、ありのままのその人のからだと、その固有なからだから発する創造性が否定さ

れ、その人には奴隷を強いる生きにくい場所となっているということでしょう。要するに、その人そのも

のかが受け容れられ、愛されるのではなく、外からのその人にかくあれと押しつける力が強いのです。子

どもの場合、学校も家庭も競争社会の倫理が貫徹し、生きづらい場所なのでしょう。彼ら・彼女らにとっ

てそのような権力の眼差しから自由で解放される場所といったら、都市空間としての渋谷・原宿・六本

木・新宿などなのかも知れません。その場所では、(幻想かも知れませんが)、押しつけらて生きるので

はなくありのままの自分でいることができ、自分を生きられるからです。

 本来ならば、一つの社会はひとつの命の誕生を祝福し、受け容れ、かけがえのないものとして育て、そ

の命がその社会を自ら責任的に担うようになってゆくのを見守る包容力がなければなりません。現代の日

本社会は、企業が社会を乗っ取っているのでしょう。行政も学校も家庭も。さて、教会はどうでしょう

か。教会は社会の中にあって、独り子イエスによって啓示された神の愛に自覚的に応答する場所ですが、

現代日本の社会の規範とは別のその本来の命に私たちは生きているでしょうか。
                                
                                  1999年12月





(ほぼ13年前に、私は、現代日本の社会は戦場ではないか、と書きました。バタバタと人が倒れて、この

社会によって殺されていくように思えたからです。それから13年後の現在の時点で考えますと、さらに深

刻な状況に日本社会は至っているように思われます。毎日のように報じられる殺人事件に麻痺し、人の死

にますます鈍感になっていく自分を感じないではいられません。)