なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(25)

 
 今日は「牧師室から(25)」を掲載します。これも15年前に教会の機関誌に書いたものです。               

                 牧師室から(25)

 先日教区の副議長のM牧師より、教区のオリエンテーション委員会主催で、「戦責告白」(第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白)について私に話して欲しいという依頼があり、引き受けました。この機会に私は、戦時下の教会やキリスト者がどうだったのか、少しでも学んでおこうと思い、関係資料も読みははじめています。

 さて戦時下の教会指導者の中には、個人としての自分は弾圧にあっても、教会はまもらなければならないという強い想いがあり、そのために結果的には「キリスト教信仰の真理的本質よりするならば、妥協と屈服の道」(金田隆一)を歩んでしまったと言われています。このことは個人と個人が属する集団との関係の問題として、戦時下のキリスト者だけの問題ではありません。

 かつて私が東京神学大学に在学していた時、戦時下のキリスト者の挫折を考えて、当時の学長であったT先生は、もし戦時下と同じ状況が再び起これば、自分は教会を解体して一人で闘うと言われました。けれども、そう言われたT先生も、70年問題の時には神学大学と学生との間で苦しまれ、神学大学を解体するところまで考えられたかどうかは疑問です。
 
 私たちの教会は私たち一人一人にとってどのような教会であり得るのでしょうか。私としては、会衆個々人と教会が離反するのではなく、大きな社会の流れの中で、一人一人を生かし支えられる教会でありたいと願い、これからも努力していきたいと思います。
                                       1997年6月

 
 武力で戦い合う熱い戦争ではないが、今日の私たちの日本の社会は、まさしく戦場の様相を呈しているのではないかと思われてなりません。厳しいリストラにより生活の基盤が失われ、途方に暮れて佇む中高年もそうですが、それ以上に子どもたちの状況が厳しくなっているのではないかと思われます。今回の神戸の小学校6年生の子どもを中学校三年生の子どもが殺害した事件は、そのことを私たちにぶつけているように思われます。
 
 現代の日本のような資本制社会では、富の方が人間よりもはるかに価値が大きいのです。そのような社会を生きる者は、この社会とは違う、人間を大切にする価値観をもって主体的に生きない限り、どこまでもこの社会の力によって影響を受け、ついには資本の言いなりになる機械の一部にさせられてしまいます。そういう人間性を失った大人たちの子どもが、自分を守り、その社会のあり様を拒絶できるのは感性においてだけです。そして感性の反発は、時には正常の領域を越えて爆発するのです。

 一方、イエスのまなざしは徹底して「いと小さき者」に向けられています。笑ったり、泣いたりしながら生きているありのままの人間です。だから、イエスに招かれた者は人間として立ち上がります。イエスはそれ以外のものとして私たちに押しつける価値観を持たないからです。このイエスのまなざしが、今の子どもたちにどこまでとどいているのでしょうか。
 
 私はそのことに強い責任を感じ、今回の事件にうちのめされてしまったのです。
 
                                      1997年7月



 先日の婦人会の修養会で、「老後そして死」というテーマでS兄が発題しました。その中でS兄は、私の牧会にも触れて、現在の私たちの教会の教会員の高齢化への対応を牧師の訪問に期待すると、高齢者の多い当教会にあっては牧師の過労に通じるので、教会員は自立しなければならないという主旨の発言をされました。このS兄の発言を聞いて、私の訪問を遠慮する空気がみなさんの中にうまれるといけませんので、一言述べておきたいと思います。
 
 現在の高齢化の現実は、確かに想像以上に厳しくなっています。私たちの教会に関係する諸兄姉に限りましても、夫婦共に80歳を過ぎ、しかも一方がケアーを必要としているケース、90歳前後の方が、全面的に家族の方々によって生活が支えられているケースが多くなって来ています。そしてその殆どの場合は、本人ないしは家族の方々によって何らかの道がつけられています。そういう生活面において教会や牧師である私ができることは、実際にはわずかです。私の出来ることは、悩みを聞いたり、諸兄姉が教会の交わりの中で覚えられ祈られていることを忘れないでもらうことです。独りで老いを生きることが、決して孤独な作業ではなく、見えない神との、そして隣人との交わりの中での作業であることを自覚していることは、決して小さなことではないと思うからです。そのために牧師が働き過ぎるということはありません。牧師の過労への危惧が、自立への促しであって、訪問の遠慮になりませんように。

                                     1997年8月