なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネ福音書12章12-16節による説教(棕櫚の主日)

 「ろばの子に乗って」ヨハネによる福音書12:12-16、  2016年3月20日(日)船越教会礼拝説教

・創世記の人間創造の記事によれば、ひとりの男とひとりの女が造られたのは、互いの助け手として、

愛し合い、支え合い、助け合って、創造者である神の愛を神に造られた人間同士が証しするためである

と言われています。

・ところが、最初の人間アダムとイブは、二人が生きていく場として与えられたエデンの園で、園の中央

の木の実だけは食べてはならないという、神の唯一の命令に逆らって、その木の実を食べれば神のような

絶対者になれるという蛇の誘惑に負けて食べてしまいました。そのことによって二人は自分の中から神を

追放して、自己中心の人間になったのです。

・そのようなアダムとイブを神はエデンの園から追放しました。そしてこの地上で自ら働いで生業(なり

わい)を得、出産の苦しみを通して子どもが与えられ、世代を超えてこの地上で人間が生きていくように

されました。

・アダムとイブの子どもカインとアベルは、神から与えられる祝福をめぐって兄弟殺しをし、カインはア

ベルを殺してしまいます。復讐を恐れたカインに対して、神はカインに復讐から守るしるしを与えて、地

上で生きていくように導きます。

・アダムとイブには、カインとアベルの他にも子どもが与えられ、二人の子孫がこの地上の大地に広がって

いきます。しかし、その人類は余にも悪に染まっていて、神は人間を創造したことを悔いで、善良なノアと

その家族及び地上の生き物のつがいを箱舟で救い、後の悪しき人類を洪水によって全滅させてしまいます。

・ところがノアとその家族の末裔もまた、神を神と思わない傲慢な人間の悪におぼれ、バベルの塔を造り、

天に住む神に代わろうとします。ノアとその家族以外すべての人を洪水で滅ぼしたことを神は悔いていまし

たので、神はそのような人類の悪を見て、バベルの塔を破壊して、人類を言葉が通じないようにして全地

に散らします。

・これが創世記1章から11章までの人間の始原(はじまり)についての聖書の物語であります。

・20世紀の二つの世界大戦を経験した人類は、21世に入った現在もなおアメリカによる戦争や第三世界で繰

り広げられている戦争を防ぐことができずにいます。核による人類滅亡の危機もまだあり得ないとは言えな

いのが、この現代世界の現実であります。グローバルな資本の動きと、それに結託した国家権力が、民族や

国家の枠組みを超えて人間と自然から収奪するこの社会の構造悪は、ますます深刻になっているように思わ

れます。

・私たちグローバルな現代社会に生きているキリスト者は、そのような人間が造り出した構造悪に直面して

いるのであります。個々の一人ひとりの犯す悪や犯罪と共に、集団としての人間が犯す悪や犯罪を無視して、

私たちは自由に生きることはできないのです。

・とすれば、そのような構造悪に対して私たちはどう対処していけばよいのでしょうか。

・最新の『教団新報』に2月15日、16日に開催された教団の第39総会期第5回常議員会の報告が載っています。

それを読んでいましたら、小さくこのような記述がありました。総幹事の選びか方についての記事の最後の

ところですが、<また、西中国教区提案「軍事基地撤去取り組み推進」には45分ほど審議時間を割き意見が

交わされたが、賛成1名で否決された。同じく西中国教区提案「『合同のとらえ直しと実質化』特設委員会設

置」は賛成無く否決された」。この二つの議案は、今申し上げました構造悪に関わるものですが、現在の教

団執行部はそのような構造悪に対しるキリスト者の責任と課題についてはほとんど取り上げようとはしませ

ん。

・先程司会者に読んでいただいたヨハネによる福音書12章12節から16節はイエスエルサレム入城について

の記事です。今日は教会歴では「棕櫚の主日」です。今日から始まる一週間が受難週です。そこで今日はこ

ヨハネの箇所を説教のテキストに選びました。

・このエルサレム入城というイエスの出来事は、イエスの復活後に誕生した教会の、イエスを救い主キリ

ストとする信仰によって彩られている物語ではありますが、イエスの公生涯の終わりにイエスがエルサレ

ムにやって来たということも、エルサレムで十字架に架けられて殺されたということも歴史的な事実と考

えられます。では、エルサレムに行けば、自分の身に危険が及ぶことが当然予想できたと思われるにも拘

わらず、何故イエスエルサレムに行ったのでしょうか。

・2011年3月11日の東日本大震災及び東電福島第一原発事故後に、原発反対の抗議行動が国会周辺で繰り広

げられています。現在も毎週金曜日、金曜行動として続いていて、Iさんは毎週参加しています。それに安

保法制反対や辺野古新基地反対の抗議行動も国会周辺で行われています。60年の安保反対抗議行動ではデ

モ隊が国会突入して、樺美智子が亡くなりました。

・国会周辺や首相官邸前で抗議行動を行うのは、国会や首相官邸がシンボルとして国政の中心として考えら

れるからです。パフォーマンスとしての抗議行動によって、その抗議行動に参加する者は国政の変革を訴え

ているのです。この抗議行動は示威行動です。その示威行動が過激になれば、逮捕されて裁判にかけられ

ることもあり得ます。

・イエスエルサレムにやってきて、エルサレム神殿で「神への祈りの場であるべき神殿を商売の場にする

な」と言って、両替人の台をひっくり返したり、犠牲獣(けもの)の鳩を売る人を追い出したりというパ

フォーマンスをエルサレム神殿行ったのも、イエスのある種の示威行為だったのではないでしょうか。イエ

スは神の国の福音を宣べ伝え、病者や悪霊に憑りつかれている人を癒し、その宣教活動をガリラヤを中心

に行って、多くの人々をその重荷から解放し、自由と希望をお与えになりました。けれども、ユダヤ社会と、

そのユダヤを属州として支配しているローマの権力によって差別・抑圧されている人々は個人的な癒しだけ

では解放されません。集団がもつ構造的な悪を解体しなければ真の自由も解放もありません。当時のユダヤ

の社会はユダヤ教を支配宗教とする社会であり、細分化された掟を破らないことが正義とされる社会であり

ました。ですから、生きていくために掟を守れない人々は律法違反者というレッテルを貼られて差別されて

いたのです。イエスは、「安息日は人のためにあるので、人が安息日のためにあるのではない」と言って、

倒錯した律法主義を批判し、人を生かすための律法本来の意義を明らかにしました。律法学者には、「あな

たがたは人の言い伝えを大切にして守るが、それによって神の掟をないがしろにしている」と批判しました。

・これらのイエスの批判的な行動は集団が持つ構造悪に対してむけられたものです。そしてエルサレム神殿

でのパフォーマンスも。私たちが国会前や首相官邸まで抗議行動を行うように、イエスは公生涯の終わりに

エルサエムに行き、エルサレム神殿でのパフォーマンスを通して、神の支配としての神の国のこの地上にお

ける到来を全存在をかけて人々に告げ知らせたのではないでしょうか。その結果イエスはローマの権力と

ユダヤの権力によって十字架に架けられて殺されたのです。イエスエルサレム入城はこのイエスの十字

架死につながるのです。

・しかも、イエスに従っていた弟子たちも群衆も裏切ったり、逃げ去ってしまい、権力によって殺害された

エスは孤独に「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばざるを得ませんで

した。けれども、その社会の構造悪と真正面から向き合って、それを批判し正義に満ちた神の国を指し示す

には、イエスの十字架は避けることが出来なかったのではないでしょうか。

・私は前にも申し上げたことがあるかも知れませんが、もしイエスエルサレムに行かないで、ガリラヤの

町や村を巡回して病気の人や悪霊に憑りつかれている人の癒しに専念したならば、福音書の物語に登場する

人々だけではなく、もっともっと苦しめる多くの人々が癒されたのではないかと思うのです。しかし、1年

半、長くて3年のガリラヤでの活動に区切りをつけて、イエスエルサレムに上っていかれました。

・それはイエスがただ単なる奇跡行為者ではなく、神の国の到来を信じ、構造悪から解放された神の国にふ

さわしい地上社会の建設を祈り願い、それにふさわしく行動したからではないでしょうか。神の支配として

神の国は、イエスの十字架を担う人々によってこの世に実現していくのでしょう。その意味でイエスの十

字架を担うことを避けた戦時下の日本基督教団神の国の福音を放棄し、戦争協力をせざるを得なかったの

でしょう。

・イエスの十字架を担うことは厳しいことであり、苦しいことで、誰もが避けたいと思うに違いありません。

実は戦時下私の母教会で、天皇制国家によって弾圧され教会閉鎖されたホーリネスの牧師が母教会の礼拝に

来られた時に、当時の牧師はその方に礼拝出席を鄭重にお断りしたということがありました。おそらくその

ホーリネスの牧師さんを礼拝に迎えれば、母教会にも弾圧が及ぶのではないかと恐れてのことではないかと

思われます。ところが、2月20日の私の支援会の集会で、同じ戦時下のホーリネス教会の牧師に関わること

を、私の友人の茅ヶ崎教会牧師の櫻井重宣さんが発言してくれて、その中で秋田の事例を資料によって紹

介してくれました。

・<湯沢ホーリネス教会の丸山覚三牧師が全国一斉弾圧で逮捕され、半年近い日々留置されたが、栄養失調

で釈放された。その丸山牧師が1943年1月、帰宅して12日目に近くの銭湯で亡くなった。瀬谷牧師は悶絶同

様で身体をちじめていた丸山牧師を抱きかかえて、温めながら膝を伸ばして棺に納め、秋田の土合竹次郎

牧師を迎えて二人で葬儀を執行した。教団がホーリネス教会を切り捨てるような風潮から獄死したホーリ

ネス教会の牧師の葬儀を引き受ける教会、牧師がいない地域があった中で、瀬谷牧師は「兄弟よ!」と丸

山牧師を抱きかかえて、葬りの業をなしたのである>。

・私は自分が同じような状況の中で、この瀬谷牧師のように振る舞うことができるかと自問自答させられま

した。母教会の牧師のようにしてしまうのではないかと。ただ瀬谷牧師のような方がいらしたということを

知って、勇気づけられました。全体主義的な国家の統制の中で、その社会の構造悪に否を突き付け、イエス

の十字架を担うことによって神の国の福音を指し示すことができるのだということを、イエスエルサレム

行きの出来事を通して、もう一度そのことに深く思いを向けたいと思います。