なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(265)」復刻版

 今日も、9年前の「黙想と祈りの夕べ通信(265)」復刻版を掲載します。

 この中に出てくる「高齢者聖餐礼拝」は、敬老の日を覚えて祝会が行われていましたが、段々高齢者が

教会の中に多くなってきたこと、また、高齢者の中に年齢によって特別視するのはどうか、という意見も

出るようになって、敬老の日の祝会をやめました。それに代わるものとして、「老いることを語る礼拝」

(日曜日)と「高齢者聖餐礼拝」(年長者昼食会とセットで、金曜日)を行うようになりました。「老い

ることを語る礼拝」では、礼拝の中に「朗読」を入れて、「老いること」に関するさまざまな文章を朗読

しました。「高齢者聖餐礼拝」は私に一任されていましたので、その中でも、いろいろな文章を紹介して

いました。下記のものは、その一つの文章です。


       黙想と祈りの夕べ通信(265[-4]2004・10.24発行)復刻版


 20日の黙想と祈りの夕べは台風で急遽休会にしました。そこで22日の高齢者聖餐礼拝の中で一部朗

読しました「人生の道に関する黙想」という文章の全文を知りたいという要望がありましたので紹介して

おきます。

 長い道、わたしはたくさんの場所と時間を通り抜けて歩んできました。
 
 長い道、わたしの人生の日々を費やしてきました。

 子ども時代、そして若い日々の道。

 喜びと幸福に満ちた道を歩んできました。

 一つの目標に向かって

 喜びをもって準備を整えて

 希望と期待に満ちて

 わたしの足取りは羽根が生えたように軽くなりました。

 広い道をわたしは通ってきました。

 世界を発見し

 見知らぬ人を信頼する経験をしました。

 わたしの人生の道で多くの人に出会いました。

 彼女ら、彼らの考えに出会いました。

 時には彼女ら、彼らのかたわらを通り過ぎ

 時には彼女ら、彼らのもとに留まりました。

 人生には狭い道があります。

 右には断崖があり

 左には危険があり

 前に向かっていくことだけがゆるされました。

 その道を歩むとき、時が過ぎるのがとても遅く感じます。

 しかし、その狭い道を通った経験は

 わたしに安定と、強さと、強い意志をもたらしました。

 ただひたすら目標に向かって歩み

 あらゆる危険の中で

 終わりはすべてうまくいくという希望だけがわたしを導きました。

 わたしの人生において困難な道を通ってきました。

 両肩に重荷を背負い

 戦争の混乱は足を重たくし

 苦しみと悲しみがわたしを取り囲んでいました。

 不自由がわたしを制限し押さえつけました。

 我慢し、忍耐し、耐え抜き

 ただ重荷を背負って歩いていく。

 困難な道を歩む人生はそのようなものです。

 暗い道を歩んできました。

 光がなく、暗く、方向性も目的もありません。

 考えは混乱し、心は乱れ

 目はうつろでした。

 確かなものがなく、不安に満ちた道

 ためらいの道、こころがいつも泣いている道で

 理解すること、新しく出発すること、和解することを学び

 方向転回することが出来ました。

 その道でわたしは失敗し

 立ち止まらざるを得ないことが度々ありました。

 わたしの人生において歩むべき道がないことがありました。

 出口のない時もありました。

 どこか遠く離れたところに一人取り残され、

 帰るべきところもありませんでした。

 道はさえぎられてしまい

 「どこへいけばいいの?」という問いだけがわたしを支配していました。

 人生は見知らぬところを進むものです。

 そして、そこで新しい道が開かれることを経験します。

 一人で歩む道があります。

 自分の意志で、方向と目的を定めます。

 そこでは集中し、人生を感じ取るように歩みがなされます。

 その道はこころを広くし

 自由を味わい、そしてすべてが備えられ

 あらゆる可能性が開かれ、わたしを勇気で満たしてくれます。

 拒絶も、援助も、賛同もありません。

 一人で歩む道は強い愛と、寛大さを必要とします。

 その道は期待であり、実現への希望のようなものです。

 人は誰かと共に歩む道を好みます。

 喜ばしい交わりの中で

 互いに励まし合い

 互いに結びつきます。

 父と母と共に歩みました。

 祖父母もそこにいてくれました。

 叔母も、姉(妹)も、

 友人も、クラスメートも、

 同僚もチームメイトも共にいました。

 喜ばしいときも、重要な場面でも

 慣れ親しんだところで、見知らぬところでも/共にその道を歩みました。

 神はわたしに聖なる道へと導きました。

 内面的な道、そして外面的な道。

 わたしたちは、愛と信頼において人間になるために

 聖なる道を必要とします。

 十字架の道はわたしたちに内面的な道を新たに示し

 巡礼の道は特別なそして聖なる場所への希望の道、祈りの道です。

 聖なる道をわたしたちは歩みました。

 他の多くの道をわたしたちの後ろに見ます。

 わたしは人生の時を費やして長い道を歩んできました。

 見知らぬ道がわたしの前にありました。

 短いのか、長いのか?

 一人で歩むのか、誰かと共に歩むのか?

 困難な道か?

 好ましい愛すべき道か?

 わたしが通ってきた道に感謝します。

 これから出会う道を静かに期待します。

 なぜなら、すべての道はわたしに多くのことを教えてくれたからです。

 わたしの人生の最後のつらい道も

 神の助けとともに歩んでいくでしょう。

 それは聖なる道の最後の部分です。

 それは神の御守りの中にある終りのない道へとわたしを導いてくれます。

 わたしの人生の道、信仰の道。

 わたしの人生の道であり、その歩みです。

 今という時の道を歩む旅です。

 一つのゴールに向かう様々な道を歩みます。

 神よ、わたしの道の初めと終わりにいてください。             アーメン