なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(210)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(210)」復刻版を掲載します。209号は別に用事があって私がま

とめたものではありませんでの割愛します。


        黙想と祈りの夕べ通信(210[-1]2003.10.5発行)復刻版

 先週は教会でも「老いること」を語る礼拝(9月21日(日))をもち、26日(金)には「年長者聖餐礼

拝」とオリーブの会(年長者昼食会)をもち、年長者の方々のことを覚える時を持ちました。後者にはY

さんが出席し、久しぶりに聖餐に与って喜んでいました。25日(木)には、鎌倉にある軽費有料介護ホー

ムの聖書の学びの集いに行き、20名位の年長者の方々に、家族制度の規範が強かった戦前の時代に、特に

女性の方は周りから決められた道を選ばざるを得なかったのではないかと思うが、自分を抑えたという気

持ちを当時持っていたのでしょうか、と尋ねてみました。自由に生きたという方が2,3名いました。彼

女らは末っ子で年が離れていたので、両親も周りの者も甘く、自分の自由にできたと言います。パスした

方を含め多くの方は、そういう社会だったからそういうものだと思っていたという答えでした。90歳位の

一人の方は、姑や夫が召されて、解放されたという感じがしている。生前は姑に仕え夫に仕えることが自

分の務めだと思っていたので、当然と思って生活していたが、亡くなって見て、解放されたという感じが

するのは、どこかで自分を抑えて生きていたところがあったのではないか、と言われました。もう一人の

方は、7-代か80代だと思いますが、自分は40代半ばで夫と離婚して、その後大変だったが自分で働いて生

きて来た。苦しかったけれども、自分で何とかしようと生きることの方が、自分としては夫に仕えて自分

を抑えていた時よりも、よかったと思うと言われました。様々な人生を歩んでこられた年長者の一人一人

を覚えたいと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今日は午後にS教会で開かれた沖縄交流

委員会主催の合同問題協議会で、パネラーの一人として務めを果たした。そこで自分の沖縄との関わりの

原点になる(沖縄の)Aさんとの出会いを話した。20年前になるが名古屋時代に、教区の婦人集会にAさ

んが来られた時、牧師館で一緒に食事をした。20,30分で、直接Aさんと自分が交わした会話は2,3分に

過ぎない。Aさんは、当時沖縄キリスト教短大で教えていたH牧師を、熱心に説得して彼女が在籍してい

たS教会の牧師に来てもらった方である。彼女はH牧師の説教に、前以てテキストを自分で読んで来て納

得がいかないと、物申したと言う。その頃は牧師の説教を彼女のような姿勢で聴くことも、質問をするこ

とも考えられなかった。彼女から自分で聖書を読むということを学んだ。このAさんとの出会いが原点と

なって、自分が沖縄と関わりを持つようになったことを話した。話の後で何人かの人から声をかけられ、

自分もAさんのことを知っていますとか、影響を受けましたという人がいた。福音が伝わるということ

は、こういうことなのかと思わされた。イエスの場合も同じではないか、人から人へと伝わっていったの

だろう。先週の女性会議で阿波根昌鴻さんの言葉が書かれたカレンダーを求めた。阿波根昌鴻さんの一つ

一つの言葉を読んで、鳥肌が立つ思いがした。阿波根昌鴻さんも語り伝えられていくであろう。私自身も

そのようなところに心を向けていきたいと思う。

 またもう一人の方からの発言がありました。先日オリーブの会を欠席し、(自分が住んでいる)地域の

集まりに参加した。教会の方々と年齢的には近いが、地域の集まりに来る方々は考え方がはっきりと違い

驚いた。生活の知恵では見習わなければと思うところもあった。高齢化してゆく中で地域との繋がりも必

要ではと思った。小学生の頃紅葉坂教会に来ていた、今は50歳くらいになる近所の方が家を建て替え教会

をつくった。その家の前を今日通って来た。電気がこうこうとついて夕拝をしていたようだった。その方

の母が亡くなって3年になるが、私が力になれることあればと思った。

 一人のはじめて出席された方からの発言がありました。自分はイエス・キリストの生きられた道に感動

し、告白して教会の群れに連なっているが、一度洗礼を受けたことで、自ら成長していくものではない。

自分は男だが、教区の性差別問題特別委員会に自分から申し出て、加えてもらった。自分が問われなけれ

ば、このままだとイエスからどんどん離れて行くように思えたからである。問われたことを真摯に受け止

めて、それを信仰の問題として考えていかなければならないと思っている。


        「キリストの力によって」(『ルターの日々のみことば』より)

 「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろ

 う。そればかりか、もっと大きなわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」   

                                  ヨハネ14:12

 わたしたちは、キリストご自身がそうであったように、地上ではこじきです。しかし神の前では豊富な

富をになっています。それゆえ、わたしたちとくらべると、この世は貧しくみじめであって、わたしたち

がいなければ、その所有物を保つことすらできません。キリスト者がこのように大きなことをなし、キリ

ストご自身より以上に大きなわざをなすというのは、どのような理由によるのでしょうか。キリストはい

われるように「わたしが父のみもとに行くからである」ということ以外ではありません。

 キリストが「父のみもとに行く」といわれる意味は、キリストは主とせられ、父の右のみ座に坐し、天

と地のすべての権を与えられるという、これです。またどうしてあなたがたはこうしたわざをする力を持

つのかといえば、「あなたがたはわたしのものであり、わたしを信じ、そしてあなたがたはわたしのうち

にあり、わたしはあなたがたのうちにある」からであるというのが、理由です。わたしが父の右にあって

持っている力により、同じ神のみいずを持っており、すべての被造物に、まことの主また神として公然と

姿を変えて示されているので、わたしはわたしを信じ、わたしのことば、洗礼、聖餐の礼典を受けてそれ

に堅く留まっているあなたがたのうちに働くでしょう。そしてわたしは、罪、死、この世、悪魔、及びす

べてのものの上に主なのですから、あなたがたもまたそうであり、したがって全く同じ力をもってあがめ

られます。それはあなたがたが自分の価値や力でもっているのではなく、ただわたしが父のみもとに行く

からです。みことばにより、祈りによって、わたしのことばはあなたがたのうちに力強く働くでしょう。


                               ヨハネ福音書14-15章の講解