なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(211)復刻版

 昨日午後鶴巻から船越に移動しました。先週悩まされた咽喉の痛みや咳からもほとんど解放され

て、健康体に戻ったようです。過日青年時代からの友人が電話をくれて、少し話しました。彼は、

私が戒規免職と現在の裁判によって、今キリスト教界では公人になっているが、私人として北村慈

郎を失ってもらいたくないという風なことを言ってくれました。私は、彼が言うほどの意識をほと

んど持っていませんし、何時も目の前の自分に与えられた課題を引き受けて、マイペースで一日一

生を送っていると思っています。彼がそんなことを言うので、本当に久しぶりにインターネットで

「北村慈郎」を検索してみましたら、400件以上になっていて、大分世間をお騒がせしているのだ

と、いささか反省させられています。

 さて今日も、「黙想と祈りの夕べ通信(2011)」復刻版を掲載します。


        黙想と祈りの夕べ通信(211[-2]2003.10.12発行)復刻版

 今日の朗読聖書の一つ詩篇104編は、自然の豊かさが描かれています。同じ詩篇19編も自然

を通した神のみ業の素晴らしさが描かれています。聖書は自然よりも人間の歴史に焦点が当たって

いると思われますが、今日の詩編104編や19編のように自然にも言及されています。「主は泉

を湧き上がらせ川とし/山々の間を流れさせられた。/野の獣はその水を飲み/野ろばの渇きも潤

される。/水のほとりに空の鳥は住み着き/草木の中ら声をあげる。」(14:10-12)、「主は天上

の宮から山々に水を注ぎ/御業の実りをもって地を満たされる。/家畜のためには牧草を茂らせ/

地から糧を引き出そうと働く人間のために/さまざまな草木を生えさせられる。」(104:13-1

4)。動物や人間が自然と対照的に生きている姿が想像されます。近代文明の洗礼を受けた私たち

には既に失われてしまったものかも知れません。今日の午後教会を訪ねてきた青年と話をしまし

た。彼はコンピューターの仕事をしていて、パソコンとにらめっこの生活だそうです。学校を出

て、ゲイムのソフトを作る会社で働いていたが、同じソフトの仕事だが、今は医療関係に転身して

いると言う。ストレスがたまると言っていました。自然との向かい合いでは、自然の生命に人間が

癒されるという面もあるように思います。農業はそういう意味では本来自然を相手にした生命の交

換に基づく、極めて人間的な職業だったのでしょう。現代の農業は生産性の向上が至上命令で、ほ

とんど他の産業と変わらなくなっているところが多いと思います。それでも、製造業やサービス業

などよりは自然との交流によるいのちの共感があるのではないでしょうか。パソコンにはそれはな

いでしょう。青年とそんな話をしました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。旧約の時代のパレスチナの自然は

豊かだったという。レバノン杉の森林があった。新約時代には砂漠化した。その原因はローマ帝国

の支配と関係があるかも知れない。日本の森林伐採の問題を教えられる。

 続いて別の方からの発言がありました。この黙想と祈りの夕べの集いに来る前に、NHKテレビ

の世界ニュースを観た。チェチェン人の女性の自爆テロのことが取り上げられていた。私は、テロ

は女性の自主的な行為だと思ったが、背後にあるグループのリーダーがいて、かつての日本軍の特

攻もそうだったが、後ろから糸を引いていることを知った。イエスは、後ろから人を動かすという

ようなことはしなかったと思う。むしろ一人で十字架にまで歩まれた。チェチェンの一人の女性は

アラーの神を見たと言うが、それもこの女性にそう言わせているのはリーダーであり、許せないと

思った。本当の指導者とは、どのような人なのか。イエスのことを思う。イエスの場合、イエス

従う人はだまされてではなく、自分から率先してイエスについていったと思う。洗脳されて命を落

とすのではなく、自立した人間として生きて行くのは難しいのだろうなあと思わされた。

 またもう一人の方からの発言がありました。夕方自分が外出していて留守中に孫娘が、就職して

旅行に初めて行ったと、おもやげを届けてくれていた。電話でお礼を言った。この子は小学生の頃

いじめを受けた子で、黙想と祈りの夕べでもこの子のことを祈ったことを思い出す。この子がいじ

めを乗り越えて現在までこれたことに、神さまの加護をしみじみと感じている。高齢者の介護の実

習のときも心配したが、そのホームの気難しいお年寄りからも可愛がられたと聞いて安心した。感

謝である。



       「神の前には平等」(『ルターの日々のみことば』より)

 神には、かたより見ることがない。  ローマ2:11

 神の前の栄光については、すべての人はひとしく造られ、だれひとり他のだれかにまさっている

者はありません。神はだれひとりとして軽蔑され、非難され、捨てられることを望まれないので

す。「あなたがたはすべての人にこの福音を宣教し、のべ伝えよ」と言われております。この点か

ら言えば、地上で、もっとも偉大で、賢く、きよく、高貴な人も、もっともいやしく、愚かで、さ

げすまれている人にまさっていないのです。彼らはすべて、悲しみとか、愛とか、ほまれとか、特

権に関して、ひとつのグループであって、だれかひとりだけ選ばれているとか、抜き出されている

ことはありません。明白に、例外なく、「信じる者は」と言われているのであって、だれであって

も、どのような民族、国民であっても、どの階級に属しておろうが、実は変わりはないのです。し

かし、この世の生活では、他の被造物と同じように不平等と多様性があります。そこでは、それぞ

れが種類に従い、ほかのものとちがっております。

 それゆえ、すべてのことが完全な秩序をもってなされても、これや、あれをした人は救われると

決して言うことはできないのです。このキリストの国ではすべてのものはいっしょくたに積み上げ

られます。そしてひとつの文章の中のひとつのことばに含まれてしまいます。すなわち、この人

か、あの人か、これかあれかをしたからではなくて、「信じる者は救われる」のです。ここでは、

あなたがユダヤ人であれ、異邦人であれ、主人であれ、しもべであれ、おとめであれ、夫であれ、

ひとつの信仰によってすべてを与えられているのです。「信じるならば」とキリストは言われま

す。「信じるならば、あなたはわたしの国におり、救われた人であり、罪と死からあがなわれてい

る」
                        キリストの昇天日の説教