なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(188)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(188)」復刻版を掲載します。
   
       黙想と祈りの夕べ通信(188[-31]2003.5.4発行)復刻版

 私はイースターとクリスマス案内を、日曜学校の子どもたちから青年、新来者・求道者、普段礼

拝に来れない教会員の方々に出すようにしています。今回もイースターの案内を遅ればせながら出

しました。数名の方からお礼のお手紙をいただきました。その中の一人にTさんがいます。もう一

年くらいは礼拝に来ておられない方ですが、それまでは月に2回くらい礼拝に来ていました。その

Tさんのお手紙を紹介します。体調を崩し周囲の方々のお世話を受けて現在療養の生活にあるこ

と、従ってイースター礼拝には出席できない旨を記した後に、このように書いています。「私は多

くの宗教遍歴ののち54歳頃、Y長老教会で洗礼を受け、9年後中村町の福音教会のお手伝いをした

り、他の教会を遍歴後、紅葉坂教会にたどりつき、自分の風来坊的趣味をあきれるのみです。一

言、思い上がり弱き者の言葉ですが、私を含めて観てきたものは偽善でした。北村先生、紅葉坂

会にはそれがなく、とても喜びでした。三浦綾子曽野綾子五井昌久遠藤周作、すばらしい

人々、めぐり読んだ方々感謝のみです。70年生き、塵より生じ塵に返る少しでもあったことを主に

感謝です」。私はTさんのお手紙の中に「紅葉坂教会にはそれ(偽善)がない」と書かれてあった

ことをうれしく思いました。キリスト者はともしますと、信仰的な建前と本音としての実生活の乖

離という矛盾に陥りがちです。そしてその矛盾を信仰的な建前を前面に出してごまかす偽善に陥り

やすいのです。私自身が最も嫌う点ですので、Tさんの手紙を読んで、うれしく思った次第です。

私は紅葉坂教会の牧師として働くようになって満8年が経ちますが、ずうーっとFさんから、紅葉

坂教会は偽善者の集まりだと言われ続けてきましたので、余計にTさんの手紙がうれしく響いたの

かもしれません。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今の牧師の話に繋がるが、祈りを

もって子どもたちがそれぞれ伸びやかに成長できますように、バラバラのいっしょをめざして私た

ちの教会が営みを続けていると思っている。人を見て、違いを思うと、自分が中心に相手を見る傾

向が強いので、実際には相手を認めていない場合が多い。それぞれの違いを認め、話し合いの中で

一つを求めていくことが大切である。「みんなちがって、みんないい」(金子みすず)。年ととも

に柔軟さが欠け易い。相手から聞き、違いを発見する喜びを感じられるように、自分が変えられて

生きていきたい。ともすると、私たちは相手を変えようと思いがちだが、バラバラなものがすべて

包含されるような教会でありたい。一人一人我慢し、自分を表せないのではなく、一人一人が自分

を出し、変わり合える関係を求めていきたい。

 続いて別の人からの発言がありました。昨日キリスト新聞を読んでいたら、日本伝道会発足とい

う記事が載っていた。R教会で行われた。今までの教団の伝道論は大教会中心に考えているよう

だ。T教会ノメンバーのビーズのM氏を使ったりもする計画もあるようだ。そういう線であれば、

若い人はそれなりに集まると思う。教団の教勢拡張路線はそれなりに成功するかも知れないが、数

として結果がでないのはダメという前提で教会の宣教を考え、社会問題に取り組んでいるからダメ

という論調は、イエスの運動とは違うものがあると思う。教会にとって伝道はもちろん大切だと思

うが、彼らの論調には問題を感じる。社会的なものへも目を向けてしっかりやっていきたいと思わ

された。


         「喜びの秘密」(『るたーの日々のみことば』より)


 「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あな 
 たがたは憂えているが、その憂いは喜びに変わるであろう」   ヨハネ16:20


 この世にはたくさんの悲しみがありますが、最大の悲しみは、心がキリストを失い、主がもはや

見えず、主からなんの慰めも希望もいただけないことです。このようにきびしい誘惑はごく少数の

ものだけが受けます。あらゆる慰めは去ります。あらゆる喜びは終わります。天も、日も、月も、

天使も、被造物も助けとなりません。神からさえも助けはありません。しかし、この世は喜びま

す。

 キリストがこの世に与えられたのは、このような喜びであり、一方、キリスト者には深い悲しみ

を与えられます。しかし、同時にキリストはこの世を恐怖の場所、悪魔の子として描いておられま

す。なぜなら、この世にとっては、キリストが滅び、キリスト者が恥ずかしめを受けて罪に定めら

れ、失われるのを見る以上に大きな喜びはないからです。それゆえにこそキリストはここで次のよ

うにわたしたちにおっしゃっているのです。あなたがたはこの世がどのように喜び、あなたがたが

どのように憂えるかについて聞いてきた。それゆえ、これらのことばを聞いて覚えるがよい。それ

は悲しみが来た時にも、あなたがたが忍耐をもち、苦しみを通してまことの慰めを受けるためであ

る。わたしはこのようにしてあなたがたを試みなければならない。そして、あなたがたが救い主を

失い、あなたがたの心の中で死んでしまうことがどういうことを意味するのかを味わわせなければ

ならない。それによって、あなたがたがこの秘密の一端を知るようになるためである。他の方法で

は、わたしを知る知識は与えられえない。神の子がその父のところに帰ること、すなわち、あなた

がたのために死に、再びよみがえり、あなたがたも同じように天にあげられるこの偉大なわざを正

しく理解することは、あまりにも困難である。

                        ヨハネ福音書16:16以下の説教