なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(19)

      使徒言行録による説教(19)使徒言行録5:17-26

・今日の説教の題は、「命の言葉に押し出されて」とつけました。先ほど読んでいただいた使徒言行録の個所にこの言葉が記されているからです。エルサレム神殿境内のソロモンの回廊の所で、イエスと同じように命と生活が脅かされている人々と向かい合って、使徒たちは、病気の人を癒し、悪霊に取りつかれている人から悪霊を追放していました。多くの病める人たちが使徒たちのところにやってきて、癒されて立ちあがって歩み出していました。それを見て、エルサレム神殿に仕える大祭司やその仲間のサドカイ派の人たちは、ねたみ(嫉妬の念)にかられて、使徒たちを捕らえ牢に入れました。その夜その牢屋の中に、「主の天使」が現われ、「牢の戸を開け、彼らを連れ出し」、使徒たちに語ったと言われた言葉の中に「命の言葉」が出て来ます。主の天使は使徒たちに「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆(民)に告げなさい」と言ったというのです。

・この主の天使は、使徒たちに随分大胆なことを語っていると思います。使徒たちは神殿に仕える大祭司をはじめとするユダヤ人の支配者たち、権力者たちによって、彼らのねたみとは言え、捕まえられて牢屋に入れられていたのです。主の天使は、そこから使徒たちを外へ連れ出し、逃げるように言ったのではありません。通常は牢屋から救出したら、再び捕まらないように大祭司らの手の届かないところまで逃がすものではないでしょうか。それなのに、この使徒言行録の物語では、使徒たちを牢屋から連れ出した主の天使は、彼らが再び「神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆(民)に告げなさい」と言っているのです。

・主の天使とは、神ご自身、キリストであるイエスご自身の意思を伝える存在と考えられますから、この主の天使の言葉は、神ご自身、キリストであるイエスご自身の言葉と言ってよいでしょう。ねたみや敵意を持って使徒たちを捕まえて、牢屋に入れる支配者・権力者の存在が明らかであるにもかかわらず、あたかもそのような敵対者が使徒たちの前にいることにはお構いなく、「命の言葉に押し出されて」語るべきことを語りなさいと、主の天使は言っているかのようです。

・なぜなら、この「命の言葉」を何よりも必要としている民衆、民が使徒たちの前にはいるからです。飼う者のいない羊のように命の危険、その危機の中にある民の存在は、使徒たちにとっては、彼らを捕まえようとする支配者・権力者の存在よりも、遥かに重く大切な存在であるのです。ですから、主の天使は、牢屋から連れ出した使徒たちに再び「神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆(民)に告げなさい」と言ったのでしょう。そのことは同時に、支配者・権力者に対する使徒たちの誠実でもあったのでしょう。主の天使、即ち神ご自身、キリストであるイエスご自身には、自己を正当化し、自己保身にかたまっている大祭司をはじめとする支配者・権力者を恐れず、自分の苦難、その十字架を担って、「この命の言葉を残らず民衆(民)に告げる」使徒たちの存在とその生きざまそのものが、支配者・権力者の中にある、神に命を与えられた一人の人間に対する誠実でもあることを意味していたのではないでしょうか。

・関田寛雄さんは、大祭司らがねたみ(嫉妬の念)のゆえに使徒たちを逮捕したことについて、「何とも感情的な動機だが、ルカは権力者の本質をよく見抜いている」と言ってこのように述べています。「権力的支配者の行動はすべて自己防衛から発する。自己の存在そのものへの問いは失われて、自己の存在は既定の大前提となってしまい、権力者である自己の座を脅かすような者に対してはあらゆる理由づけをもって排除しようとする。感情が先行して理由は後からつけられる。復活の宣教に対する圧力も、イエスの名による説教の禁止も、実は二次的な理由づけである。信仰の違いをあげつらうのも、実はその裏にある自分たちの身が脅かされるのではないかという政治的危機意識によるものではないのか」(『説教者のための聖書講解、釈義から説教へ、使徒行伝』82―83頁)と。私は、この関田先生の権力的支配者の行動に対する分析を読みながら、私を戒規免職処分にして教団から排除をしようとしている現在の教団執行部の人たちも同じではないかと思いました。

・そのような権力者との関わりは、その行動には抗いつつ、彼らの中にある神に命与えられた一人の人間に訴えていくことではないでしょうか。私はイエスの中には権力者に対してそのようなものがあったのではないかと思えてなりません。

・さて、使徒たちを再び神殿の境内に立たせて、「この命の言葉を残らず民衆(民)に告げなさい」と言った主の使いとその言葉について思いを馳せたと思います。

・夜、主の天使による奇跡的な釈放の記事には、ペテロらを使徒として立て、民衆(民)に派遣した神ご自身が、使徒たちを徹底的に追跡されることを示しています。モーセイスラエルの民を導いて、エジプト軍が迫る中、神の不思議な導きによって紅海を渡ることができ、エジプトから解放されたという救済の恵みの物語があります。神は御自身の計画において選ばれた『器』を徹底的に追跡されるのです。ヨナの如くどこまで逃げてもこの選びを神は撤回されることはないのです。選びの『器』がその選びに適しく機能する場に立つまでどこに隠れても彼を追い求め、見出し、使命の場に立たしめます。詩編139:7-10には、このように語られています。『どこに行けば/あなたの霊から離れることができるでしょう。/どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。/天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。/曙の翼を駆って海の中に行き着こうとも/あなたはそこにいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる』)。しかしまたダニエルの如くどんなに厚い城壁に囲まれた所に閉じ込められ、不可能な権力で幽閉されたとしても、神はその『器』を追跡されるのです。いかなる障害をも打ち破って『戸を開き』、その『器』を『連れ出して』、使命の場へ向かわしめられます。『万軍の主の熱心がこれをなされるのである』イザヤ書9:7にと記されている通りです。
それ故時に神の救済は使命に向けての救済です。この獄中の使徒たちにとって釈放は単なる解放ではありません。思いを越えた恵みによる釈放は、しかし、使命の重荷を取り去り、楽な生活を約束するものではないのです。否むしろ釈放は直ちに派遣へと続きます。しかもその派遣は『脱獄』によって一層危険となった場所、かつてそこで二度の逮捕の痛みを経験した『宮の庭』への派遣なのです。そしてそこに使徒たちは神によって『立たされる』(受身形)のです。これが恩寵であります(以上、関田寛雄さんにほとんど依っている)。

紅葉坂教会時代に私が青年だったころ、洗礼を授けていただいた平賀徳造牧師が言われたという「強いられた恩寵」という言葉が良く教会の中で語られていました。その言葉は、秦野駅から歩いて蓑毛からヤビツ峠まで登って降っていったところにある丹沢ホームというところで青年の修養会が行われた時、心臓の弱かった平賀徳造牧師がヤビツ峠まで登る坂道を後ろから青年に押されながら登っていた時におっしゃったと言われていました。「使命に向けての救済」は使徒たちにとっては、正に強いられた恩寵だったのでしょう。

・そのように『立たされる』使徒を内側から支えるものは何でしょうか。それは『この命の言葉』に他なりません。自らが語るべく担っているものによって、実は担われているのです。それはこの言葉が知識と概念によって伝達される言葉ではなく、自らそれによって生きるべく語られる言葉だからです。その言葉が語られ、聞かれる時、同時にそこに新しい事態、新しい存在が創造されるのです。使徒たることは、『この命の言葉』を語るべく聞かれ、そしてその『命』に生かされている者のことです。それはそれ故に『残らず、民衆(民)に』語られねばならぬ言葉なのです。使徒はこの言葉を聞くことによって生き、語ることによってまた生きる者です。それ故彼はそれを語るべく『立たされる』のです。

・このような使徒たちと私たちは、ある意味で信仰者として全く同じ存在ではないでしょうか。イエスの出来事の中に私たちすべての人間と自然の、救済と解放のおとずれを聞き、その福音を信じて生きていくことを決断した私たちは、イエスから「命の言葉」を与えられました。そしてその命の言葉に押し出されて、今私たちが置かれていますそれぞれの場に立たされているのです。その場所は、使徒たちにとって二度も権力者によって逮捕された神殿の境内であったように、この世の権力が支配し、その権力の支配によって秩序化された場所です。人の命と生活が脅かされている場所です。沖縄や福島の人々を切り捨て、見棄てようとしている、また、生活保護費が削られ、防衛費が増額されようとしている、政治が行われているこの国の中にある場所が、私たちの日常的な場所であり、そこが信仰者として「立たされている」場所です。

・そこでたまたま経済的に恵まれた自分の生活のみに安住して居直っているとすれば、それは権力者と同じことではないでしょうか。命の言葉によって救済を経験し、その命の言葉によって生きる者として、すべての人と命の言葉を分かち合うために、その場に立たされ、私たちは派遣されているのです。もしそこで現実と派遣された私たちとの間に障害があるとするならば、主の天使を遣わし、使徒たちを牢屋から連れ出し、再び神殿境内に立たせて、命の言葉を語らしめた、執拗な神の追跡を想い起さなければなりません。

・「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ロマ8:38,39)。

・命の言葉に押し出された者として、この神の追跡に身を委ね、遣わされた弱者が切り捨てられている私たちの日常の場に「立たされた」者として立ち続けて行きたいと願います。