なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(187)復刻版

 昨日は神奈川教区の「平和フェスタ」が行われました。『戦争のつくりかた』という絵本をベースにし

て、教区の各委員会がその委員会委員会の課題との関係で、戦争につながる道を発表し、それを書いた紙

を、神奈川教区の教育部が子どもフェスタで使った床から天井に届きそうな大きな木の十字架に貼り付け

ていきました。ちなみに寿地区活動委員会では、生活保護費と削減と防衛費の増額が戦争に繋がると訴え

ました。各委員会の発表後、一度十字架に貼られた紙(葉っぱ)を落として、落ち葉のように十字架の下

に散らし、続いて参加者一人一人に配られていた色紙の葉っぱに、平和に繋がることを自由に書いて、そ

れを各自で十字架の上からかけられた緑の網に、結び付けていきました。そして、自分の葉っぱに書いた

ことを、自由に発表する時を持ちました。その発表した人の一人が、驚いたことに、私の戒規免職処分が

日本基督教団において撤回されて、教団が民主的な集団になることが平和につながるという主旨のことを

発言しておられました。みんなどっと笑いましたが、確かに教団の民主化は平和に繋がります。そして、

その自由な発言の中で、一人の敗戦時20歳であったという方で、自分の戦争に行った経験を踏まえて、軍

隊から逃げることが平和に繋がるということを言われました。そして戦時中、日本軍の兵士になれば将来

まで生活が保障されるというので、朝鮮の方が志願兵になって、日本軍に加わった。その中で朝鮮の方が

グループで日本軍の武器をもてるだけもって、脱走していったということがあった。自分はその朝鮮の方

を尊敬するとおっしゃいました。当時軍隊を脱走するということは、即処刑か獄窓生活を強いられること

を意味していたと思われます。「逃げる」ということが、戦争をしないことにつながり、そして平和に繋

がるということを、この方の発言を聞きながら改めて思わされました。

 私の知っている限り、もう天上の人になっていますが、教団の教職の中でも軍隊を脱走した人がいたと

いうことを聞いたことがあります。以前ある神道系の宗教教団では、戦争に行く人に、銃は天に向かって

打てと指導したということが書かれていたのを読んだことがあります。国家の戦争遂行に巻き込まれてい

くときに、そういう状況の中でも、個人としてできることが「逃げる」ということであり得るのだという

ことを、上記の方の発言を聞きながら、しみじみと考えさせられていました。

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(187)」復刻版を掲載します。



          黙想と祈りの夕べ通信(187[-30]2003.4.27発行)復刻版

 今日はイースターで、説教ではルカ福音書の復活の記事を読み、この黙想と祈りの夕べではマタイ福音

書の記事を読みました。お気付きの方もいらっしゃるかも知れませんが、復活された主イエスが女たちに

現われたと言われているのはマタイの方で、ルカ福音書の編集者の考え(神学)によれば、復活の主の顕

現に与ったのは弟子達であり、女たちは墓でイエスが復活したことを御使いに告げられ、それを弟子たち

に知らせるだけの役割に限定されているのです。そこには、ルカの女性観が反映されていると思われま

す。フェミニストからすれば、ルカは批判の対象になるでしょう。一方マタイも必ずしも女性に好意的だ

とは思われませんが、マタイ福音書では復活の朝の、女たちがイエスが埋葬されたお墓に行った時の物語

では、女たちは復活の主イエスの顕現に与っています。おそらくマタイの方が事実に近いのでしょう。聖

書の記述は、ある意味ですべては解釈であると言えるでしょう。すべての原事実(真実)は、それを伝え

る人の解釈を介して伝えられます。私たちがある歴史的な事件に遭遇して、それを他者に伝えようとする

場合も、何らかの私たちの解釈が入らざるを得ません。ですから、私たちは伝えられた伝承を通して事実

とか真実に謙虚さと熱心さをもって迫ることが求められているのではないでしょうか。聖書の場合も聖書

の記述が描こうとしている出来事そのものに想像力を駆使して迫ることが大切なのだと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。受苦日に教団の職員信徒による有志によ

る教団全体への呼びかけで横須賀でイラク戦争緊急抗議集会があった。それは昨年夏に神奈川教区の有志

の女性で沖縄に行き、その後大きなうねりを起こす会のメンバーの一人として私が活動していきたからで

あろう。私は集会に参加した。受苦日の祈祷会までには帰れればと思ったが、I牧師の話に引き込まれ

て、最後まで集会に参加し、祈祷会は欠席した。8教区から参加者があった。その中に中部教区からはた

だ一人Fさんという方の参加があった。Fさんの発言(インターネットによる自主的な繋がりを広げるこ

と、諸教会の教職人事における学閥を撤廃し、人事をオープンにできないかなど)を聞いて、彼が中部教

区で孤独な闘いをしていることがわかった。私は今まで障がい児の問題にずっと関わっており、政治的社

会的な問題への関わりを今までは持たない方だった。たまたま去年の夏沖縄に行って、沖縄の方から自分

の足元でやってくださいと言われて、何ができるか考えて、与えられた仲間を共に歩んでいる。Iさんが

Mさんを孤独にならないようにしようと参加者に言ったとき、Mさんは、僕は孤独ではないですよ、と答

えていた。かつて私も中部教区にいたことがあるので、Fさんの話を聞いて、うしろめたさを感じた。誰

か仲間ができるようにと、Fさんのことを覚えて祈っていきたい。



         「みまもり」(『ルターによる日々のみことば』より)


 「そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せるであろう」  ルマ15:5


 主キリストが、失われた羊を自分の肩にのせ、羊の群れの所に帰って来る羊飼いにご自分をたとえられ

たことほど、全福音書を通じても気高いたとえは他に見いだせないでしょう。そして主は今日にいたるま

で負いつづけておられます。

 それゆえ、福音の要点はつぎのとおりです。キリストの国は恵みとあわれみの国であって、そこには導

くこと以外には何もありません。キリストはわたしたちの罪を負い、わたしたちが倒れても忍耐のうちに

待ってくださいます。わたしたちはいつも主の肩の上にいこい、主は決してわたしたちを負うことに疲れ

ません。これはわたしたちが罪の誘惑を受けている時の最大の慰めです。それゆえ、神の国の説教者は福

音によって良心を慰め、やさしく扱い、みことばを与えねばなりません。彼らは弱い者を導き、病める人

をいやし、それぞれの必要に応じて、どのようにみことばを生かして伝えるべきかをよく知らねばなりま

せん。
                   ルカ福音書10:23-27の説教