なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(52)

     マルコ福音書による説教(52)マルコによる福音書12:28-34、
             
福音書を読んでいますと、イエスとイエスに従っていった人々に対して、ファリサイ人、律法学者が、何か根本的に相対立するものとして描かれています。両者は、相反する立場にあって、結びつくところが全くないかのようです。ちょうどイエスが右に行くならば、パリサイ人、律法学者が左に行くというように、です。ところが、今日のマルコによる福音書の記事では、そういう対立はなく、むしろ何が大切な神の掟であるのかということで、両者は同じように考えていることが明らかにされています。

・律法学者がイエスに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と質問して、イエスは、第一は唯一の主である神を愛すること、第二は隣人を自分のように愛することである、と答えました。すると、そのイエスの答えを聞いた律法学者は、32節を見ますと、「先生、おっしゃる通りです。…」と言ったというのです。そして、イエスのおっしゃったことを自分なりに言い換えて繰り返しました。すると、今度は、34節を見ますと、イエスが、その律法学者の適切な答えを聞いて、「あなたは神の国から遠くない」と言われたというのです。この記事を読む限り、律法学者とイエスとの間には、第一に、ただ一人の神を愛すること、第二に隣人を自分のように愛することの二つに、すべての掟は尽きるということにおいて、違いは全くありません。

・聖書で掟という場合、それは神の意志を表します。神が私たちすべてに、かく生きよ、そうすれば命に至ると約束してくださっている、私たちが歩むべき道です。私は、あまり山歩きはしませんが、山には要所、要所に、方向を指示する標識が立っています。特に険しい山を登る時には、横道にそれて迷うと危険ですから、地図で登る道を確かめ、標識をよく見ながら、登らなければなりません。目的地に到達する道を間違えたら、とんでもないことが起こってしまいます。そのように、私たちも、神に造られた人間らしくその命を全うする為には、命に至る道を歩まねばなりません。その道を示すものが神の掟なのです。

・神の掟が何であるのかという点で、イエスも律法学者も、ただ一人の神を愛すること、隣人を自分のように愛すること、この二つに尽きるということにおいて、同じなのです。今日の説教題を「基を一つにしながら」としました。それは、命に至る道を一つにしながら、イエスと律法学者は、なぜ対立してしまうのかということを考えたかったからです。また、どんなに対立していても、命に至る道は一つなのだということを考えたかったからです。

・ただひとりの神を愛することと隣人を自分のように愛すること、このことが同時に満たされたときに、私たちの中に命の充満、平和が実現します。ただひとりの神のもとにあって、皆が対等同等な者として、他者である隣人の命と生活を奪わないで、民族や国家による分断を越え、性差や能力差という人間の資質の違いを認め合って、共に分かち合い、支え合ってこの地上に住むすべての人が歩むことができれば、この地上に平和な地球社会が誕生するでしょう。しかし、私たちの現実の姿は、未だ民族や国家の壁を地球規模では越えられていませんし、様々な人間の違いが差別や排除を生み出すことからも解放されていません。ですから、この世界の現実は平和からは遠いものです。けれども、私たちはイエスにおいて、その遠い平和が既に実現している神の国の到来を信じています。そしてその神の国をイエスと共に、今ここで生き得るものとして経験しているのではないでしょうか。

・イエスと律法学者は、基を一つにしながら、実際には、安息日問題(3:1以下)やコルバン(7章)についての記事が示していますように、その違いが際立っています。マルコによる福音書7章のコルバンの物語のところで、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(7:8)と言われている通りです。

・このようなことがなぜ起きるのでしょうか? それは、イエスと共に神の命によって日々生かされていく道に、自分が虚心坦懐に、幼な子のようにひたすらに生きようとするのではなく、私たちが自分のために命を所有しようとするところに、根本的な問題があるように思えます。ただ一人の神を愛することは、ただ一人の神にすべての人が無償に愛されていることを信じて生きることです。そして、すべての人を無償に愛する神の愛は、失われたひとりの人を求める愛です。100匹の羊の譬えがそのことを語っています。99匹を残して、いなくなった一匹の羊を探し求める羊飼いのように、神は失われた一人を求めてやまない方であると、イエスは、ご自身の振舞いによって語られました。たとえ99人の命が助かったとしても、たった一人の命を失ってしまったなら、それは、命を大切にしたことにはなりません。

・最近読み返した本の中に、こんな一つの小さな物語が記されていました。少し長くなりますが、それを紹介させていただきたいと思います。「或る日、一人の若い脱走兵が、敵の目を逃れて隠れるために、ある小さな村に逃げ込んだ。その村の人たちは彼に親切で、彼に寝泊りする場所を提供した。しかし脱走兵の隠れ場を探索して兵士たちがやってきた時、村人たちは大そう恐れた。兵士たちは、夜明けまでに脱走兵を引き渡さないなら、村に火を放って村人を一人残らず殺すと脅した。そこで村人たちはどうすればよいかと司祭の所へ相談に行った。少年を敵の手に渡すか村人たちが殺されるかの間に挟まれて、その司祭は自室に引きこもり、夜明けまでに答えを見いだそうとして聖書を読んだ。長い時間の後夜明け前になって、次のような箇所が彼の目にとまった。『多くの民が失われるよりも一人の人が死ぬ方がよい』。司祭は聖書を閉じて兵士たちを呼び寄せ、少年がどこに隠れているかを告げた。そして脱走兵が引き立てられて殺された後、村では、司祭が村人たちの生命を救ったので宴会が催された。しかし司祭はその席に現われなかった。深い悲しみに襲われて、彼は自室に引きこもっていた。その夜天使が現われて彼に問うた、『あなたは何をしたか?』彼は、『私は脱走兵を敵の手に引き渡しました』と答えた。すると天使は言った、『あなたは救い主を引き渡したのを知らないのか?』『どうして私にそれが解りましょうか?』と司祭は不安になって問い返した。すると天使は言った、『聖書を読むかわりに、ただ一度でもこの少年を訪ねていたら、あなたはそれが分かったであろうに』。」

安息日を守ることは、一人の手の萎えた人のいやしを排除するものではありません。むしろ神のみ業を思い起し、共に祝う安息日の礼拝で、手の萎えた人がいやされることは、まことにふさわしいことでしょう。 神に供え物を捧げることは、飢えている父母に食物を与えることを排除するものではありません。むしろ、神への供え物を、飢えたその父母に与えることこそ、神に供え物を捧げることに通じます。礼拝も奉献も、神への私たちの応答です。神が私たちに何をしてくださっているか、そのみ業に応えることです。その応答は、イエスにとりましては、今ここに実現成就している神のみ業、つまり神の国を生きることでした。律法学者にとっては、自らの応答としての、安息日の厳守、供え物の捧げによって、自分たちが神の国の民になりうると考えられていたのです。

・掟には、関係が背後にあります。関係を結ぶ他者との信頼関係の中で、はじめてそれを守ることが出来るものです。「信頼のないところに、約束を守る誠実さは生じ」ません。律法学者は、その答えによってイエスから神の国に近いとい言われました。しかし、その一歩を踏み出すものがなければ、近いけれども、隔たりがあることに変わりありません。近いことと、神の国の勢力範囲にあることは、天と地の違いです。その踏み出されるべき一歩の隔たりを私たちに越えさせるものは、神への信頼による聖霊の導きなのでしょう。

・神を待ちつつ、祈ることと正義をなすことが、ボンヘッファ-の基本命題であったと言われます。第一(祈ること)と第二(正義をなすこと)が密接不可分な形で神の掟であることは、意味深いことです。信仰によって神の掟を生きるということは、ハイデルベルク信仰問答が正しく位置づけているように、救いへの感謝としての行為なのであります。ハイデルベルク信仰問答は、序が「唯一の慰めは何か」で、その答えは、「わたしたちがイエス・キリストのものである」ということです。そして第一部は「人間のみじめさについて」、第2部が「人間の救いについて」、第3部が「感謝について」という構造になっています。この第3部の「感謝について」の項目に、新しきわざとして、十戒と主の祈りが出て来ます。十戒と主の祈りがイエス・キリストのものとしての私たちの生きる道しるべ、ということです。十戒も主の祈も、ただ一人の神との関係の中で、すべての人は違いがありながら大切な存在であり、みな対等同等な存在であるということがその根底にあります。心を尽くして神を大切にすることは、己のごとく隣人を大切にすることです。己のごとく隣人を大切にすることは、心を尽くして神を大切にすることです。

・私たちは、日常的に与えられている、他者である隣人との関わりを大切にし、その具体的な関わりの中で、繰り返し「主の祈り」を祈ります。主の祈りは、祈ることによって、私たちが主の祈りを生きることへと私たちを促しているのです。