今日は「黙想と祈りの夕べ通信(163)」復刻版を掲載します。ちょうど10年前の第33/18回教団総
会後のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(163[-6]2002.11.10発行)復刻版
先週第33/18回教団総会が開かれました。私は25年ぶりに教団総会に出席しました。今回議長に選ばれ
た山北宣久牧師の言葉、「第33回」にかけて、「散々」か「燦々」かということからすれば、今回の教団
総会は「散々」だったとしか言いようがありませんでした。総会での発言の中で印象に残った言葉を紹介
します。それは「世から問われている教会」です。「世に仕える教会」とか「世のための教会」というこ
とが、ボンフェッファーからでしょうか、よく言われてきました。けれどもこの言い方の中には、どこか
に教会には「世に仕え、世のために」なる権能があるという前提があるように思われます。私は、イエス
の福音にはそのような権能があると信じていますが、教会即イエスの福音と言えるだろうかという思いが
あります。「聖なる、公同の教会を信じる」(使徒信条)という信仰告白をもって、その信じる教会が現
実の歴史的な教会であるのだろうかと思うのです。むしろイエスの福音を証言する教会は、真実にその証
言がなされているかどうか、世から問われていると言えるのではないでしょうか。そういう意味で、ある
議員の発言の中にありました、教会は世から問われているのだ、という言葉が心に響きました。
上記の私の発言に続いて、一人の方が教団総会に出席しての感想を語られました。自分は傍聴者として
教団総会の会場の後ろの席で議論を聞いていた。最後の「沖縄関連議案」のときに、「大きなうねりの
会」の横断幕をもって、会場の左中ほどのちょうど東京教区議員席の横にいた。東京教区の牧師議員たち
のすぐそばで、体を堅くして「廃案にしてはダメ」と、周りの目をはばかるようにつぶやいている女性議
員がいた。東京教区は全体で一致しているようで、一人一人の自主的な判断で行動するのがむずかしいの
だろうか。数の論理で自分を殺さなければその場にいられない空恐ろしさを感じた。戦争反対=非国民と
言われたことを思い出して恐ろしかった。私自身は、廃案になったが、これからの関わりを続けていけば
よいと思った。また、沖縄の人たちも決断できたような何かすっきりした顔で帰って行った方もあり、沖
縄の方々との関係はこれからも続けられると思うが、あの一人の女性の姿には、自由のない恐ろしさを感
じている。
別の方の発言がありました。教団総会の感想を聞いて、16年前に以前所属していた教会から出て、一時
或る教会に出席したら、その教会の若い牧師が、私たちの教会は正しい信仰を正しく宣べ伝えたいと言わ
れた。その教会ではそれまで自分が引きずってきた問題が解決されるとは思えなかったので、当教会に来
た。教会には、正しい信仰という正統派を自認する教会と当教会のようなヒューマニズムや人権を大切に
する教会という二つの流れがあるように思われる。自分は、教会はヒューマニズム・人権を大切にすると
ころでありたいと思っている。
更に一人の方からは、衣笠のボランティアの感謝会に出席しての報告がありました。感謝会は横須賀の
プリンスホテルで開かれ、当教会から3人参加した。同じ志をもった人たちの有意義な集いだった。その
後横須賀の街を散歩して帰って来た。
「聖徒の嗣産」(『ルターの日々のみことば』より)
神は、わたしたちを新たに生まれさせて……あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、
しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
第一ペテロ1:3,4
このみことばは、わたしたちの希望がこの地上の財産とか、現世の資産におかれていないことを意味
します。しかしわたしたちはやがてきたるべき、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ希望を
もって生きております。わたしたちはこの資産を永遠に持っています。ただ、今はまだ見ることができな
いだけです。このみことばは力強い貴重なことばであって、この意味を把握することのできるものはだれ
でも(自分の持っている)この世の資産とか快楽にそれほど関心を持たなくなります。もしこの真理をま
ことに信じるならば、どうしてなおもこの世の資産と快楽にすがりつづけることができるでしょうか。も
しこの世のものをこれらの天の資産とくらべるならば、この世のものはつかの間しか続かず、そしてすべ
て滅びることがわかります。一方、これらのものは永遠に続いて滅びることがありません。さらに、この
世のものはすべて不潔で、わたしたちを汚します。一方、この嗣業は全くきよく、それを所有する人は永
遠に汚れません。それは朽ちず、しぼまず、枯れることがありません。この世のものは、たとえ鉄や石ほ
ど堅くても、すべて滅び、永続することはありません。人は年をとるにつれ醜くなります。しかし永遠の
資産は変わることなく、いつまでも新鮮でみずみずしいのです。この世には、時がたっても決して退屈す
ることがないほどの大きい快楽はありません。わたしたちは、人がどんなものにもだんだんあきてくるの
を見ております。しかしこの資産はちがった性質を持っています。しかもこれは信仰により、キリストに
ある神のあわれみによってすべてわたしたちのものになり、すべて惜しみなくわたしたちに与えられま
す。
ペテロ第一の手紙講解