今日は「使徒言行録による説教(9)」を掲載します。
使徒言行録による説教(9)使徒言行録2:29-36、
・今日は2012年の最後の日曜日になります。使徒言行録の続きになります2章29節から36節までが、今日私たちに与えられた聖書の個所です。このところから、メッセージを与えられたいと思います。使徒言行録による前回の説教は16日ですので、少し時間が空きましたので、今日の個所と今までの所との関連を、まず見てたいと思います。
・この個所は2章14節から記されていますペトロの説教の一部です。このペトロの説教は、使徒言行録では聖霊降臨の記事(2:1-13)の後に続いています。そこには聖霊降臨によって使徒たちが「ほかの国々の言葉で話しだした」と記されています。(2:4)。するとエルサレムに晩年住んでいた、ディアスポラ出身のユダヤ人たちが、自分たちの故郷の言葉で使徒たちが語るのを聞いて、あっけにとられたというのです(2:6)。そしてそこにいた人たちの中には、「『あの人たちはぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」(2:13)とあります。
・ペトロの説教は、この使徒言行録では、聖霊降臨の出来事をあざける者たちへの弁明として記されています。まず「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」というヨエル書の引用から、「ナザレのイエスこそ神から遣わされた方である」ということを語ります。そしてイエスの十字架は神の計画によるものであり、「神はイエスを死の苦しみから解放して、復活させられた。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえないからだ」(2:24)と言って、詩編16章8-11節を引用しています。そしてそれに続けて今日の個所があるのです。
・ペトロの説教では、この詩編16編の詩の作者はダビデとされています。そこでこの詩編16章8-11節の真意を明らかにするためには、詩の裏付けになっているダビデの歴史との対比をする必要があります。ダビデのことを考えてみますと、「彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにある」(29節)ことは周知の事実でした。とすれば、この死はダビデのことをいったものではないことがわかります。ダビデは実は「預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせる」と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、キリストの復活をあらかじめ知って、「彼は陰府に捨ておかれず、その体は朽ち果てることがない」と語りました(30,31節)。これがこの詩の解釈です。つまりこの詩の主格であるダビデ自身が、キリストの復活の証人であることを示したかったのです。そして、彼ら(われわれ)もまた「皆、そのことの証人です」(32節)。このようにして、この詩とキリストの復活との関係を明らかにし、キリストの十字架より復活への経路を示して、はじめてイエスが「約束の聖霊を御父から受けて(わたしたちに)注いでくださいました」(33節)。ここに至ってこのペトロの説教の本来の目的である聖霊降臨の事実の解明ということが達せられたわけです。すなわち、聖霊降臨は、十字架と復活をほかにしては理解することはできない。これと同時に、ことは聖霊降臨という事実だけに限って理解されるべきものではなく、それはやがて主の勝利となるのである。これをいうために、詩編110編1節の引用がなされるのです。
・〈「主はわたしの主に告げになった。『わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで』」(34,35節)。
・この詩編110編1節は、もはやダビデ自身についていったものでないことは明らかです。なぜならば「ダビデが天に昇ったのではない」(34節)からです。ここに二度用いられる主の第一のものは神であり、第二のものはキリストをさすことになります。イエスは、このメシアに用いられる詩によって、主という称号を自らに適用するわけです。このようにして、聖霊降臨は、ケリュグマに宣べられる福音の中心を語る機会に用いられ、その立場からのみ理解されることが明らかになりました。したがって、当然、この詩のように主の勝利をたたえる言葉によって結ばれます。
・「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主として、またメシアとなさったのです」(36節)
・このようにペトロの説教には、イエスをメシアとする信仰が明確に示されています。十字架のイエスは勝利者イエスであるという信仰です。そしてそのようなイエス・キリストへの信仰によって最初期の教会が誕生していくわけです。ケリュグマのキリストが教会の要になったと言えるでしょう。メシア=キリスト・イエス、主であるイエス、勝利者イエスです。
・このケリュグマへの信仰には、この世にあってキリスト者が何を信じ、何に従って生きて行くかという点において、この世の権力でも、この世の富みでもなく、ただ主イエス・キリストだけを信じて行くのだという、キリスト者の主体性を生み出すものがあるでしょう。十字架と復活、昇天して今は天上の神と共におられる主イエスから、我々は聖霊の注ぎを受けて、イエスのみを主とする信仰によって、迫害にも弾圧にもめげずにこの世で信仰を守り、死んだら神と主イエスのところに行き、永遠の命を与えられるのだという信仰です。
・けれども、福音書によって私たちが知ることのできるイエスは、いのちを生かす神の支配としての神の国を宣べ伝え、病者を癒し、悪霊に憑かれた人々から悪霊を追い出し、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」と語り、当時のユダヤ社会の中で宗教的な枠組みによって束縛されていた人々をその束縛から解放し、エルサレム神殿の庭で両替人や犠牲獣を売る人の台をひっくり返して、神殿批判をして、十字架に架けられて殺されたナザレのイエスという人物です。この史的イエスと信仰のキリストとの間にはどのような連続性があるのでしょうか。或いは、両者には決して繋がることのない断絶があるのでしょうか。
・使徒言行録とルカによる福音書の著者であるルカは、彼の救済史観、イスラエルの選びから始まった神の救済の歴史は、イエスという「時の中心」に至り、そこから教会が誕生し地の果てにまで福音が宣べ伝えられて、終末が到来するというものです。このルカの救済史観からすれば、史的イエスと信仰のキリストは神の救済史の中で一貫したものとして捉えられていきます。そしてそれは後の教会の信条が物語るものと、ほぼ同じ考え方になります。ちなみに使徒信条を読んでみます。
・「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。」
・歴史的なナザレのイエスについては、処女降誕、十字架、復活、昇天、高挙、再臨について語られていて、地上のイエスの生涯における活動については、ほとんど記されていません。使徒信条では、イエスの生涯は誕生から死に直結してしまっています。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という個所に、イエスの地上における全生涯が言い表されているという解釈もありますが、少し無理な解釈のように思います。
・このような使徒信条におけるイエス・キリスト理解、その元になっていますルカの救済史観によるイエス・キリスト理解は、明らかにケリュグマのキリストに中心点があります。このようなイエス・キリスト理解を信仰の核として絶対化しますと、ナザレのイエスの生涯における活動が矮小化されていくのではないでしょうか。70年以来日本キリスト教団の歴史の中で、史的イエスを強調する人に対して「イエス教」というレッテルをはって、正統的なキリスト教の信仰理解ではないという人たちがいましたし、今もいると思います。
・イエスの歴史を神話化することによって、キリスト教の教義が作られ、その教義によって自らの信仰の対象を言葉にするということは、イエスを信じて作られた信徒の交わりである教会が、自らのアイデンティティーを確認するためには必要な事だったのかも知れません。しかし、イエスは己が教会の信仰の対象になるということは、全く考えてはいなかったと思われます。その意味で、イエスを主と信じる者の交わりである教会は、イエスご自身に帰っていく回路を失ってはならないと思います。人々の中でイエスが自分の全存在を賭けて為したことはなんだったのだろうか、という問いを持ち続け、イエスがめざした道に私たちも時代と社会を越えて歩むことへと招かれているのではないでしょうか。ルカの十字架のイエスが真の勝利者であるという信仰を否定するわけではありませんが、そのことを忘れないでいたいと思います。
・「光は暗闇の中に輝いている」(ヨハネ1:5)。イエスの歴史は暗闇の中に輝く光であり、それは現代においても全く変わらないでしょう。私たちは、そのことを覚えて、また新しい年の歩みへと向かっていきたいと思います。