なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(48)

       使徒言行録による説教(48)使徒言行録13:38-43
             
・私たち人間には、誰にも、その人を支えているものがあるように思います。知識であったり、お金であったり、血筋であったり、或いは健康であったり、名誉であったりします。そしてそのような自分を支え、誇るべきものが何も見いだせないという人は、自分の存在が常に不安定であり、自分はダメな人間ではないかという不安や恐れに襲われ、自尊心をもって生きることがなかなか難しいのではないでしょうか。

・安倍首相は「日本を取り戻す」ということを言っています。彼にとっては、日本という国家、或いは日本人という民族が強い存在であることが、政治家としての彼を支えるものになっているように思われます。或いは、政治家としてだけではなく、安倍晋三個人にとっての支えでもあるのかも知れません。ですから、安倍首相は、日本国家の正当性を前提に歴史を見ているでしょうから、かつての戦争を侵略戦争として否定的に評価することを出来るだけ避けたいのでしょう。憲法を変え、歴史教育をねじまげ、経済を活性化して、何としてでも日本の国を強くしたいのでしょう。そのための政治手法は、民主的で人権を尊重する平和な国を願う私たちにとっては、大変危険な政治家であるように思われます。

・ところで、ユダヤ教を信じるユダヤ人にとっては、彼ら・彼女らを支えるものは、「律法による義」でありあました。福音書の中には、イエスと律法学者・ファリサイ人との論争の場面がよく出て来ますが、律法学者やファリサイ人にとって何が問題だったのかと言えば、イエスや弟子たちが律法をちゃんと守っていないということでした。マルコによる福音書2章23節以下に安息日論争の物語があります。そのところを読んでみます。

・「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのですか』と言った。イエスは言われた。『ダビデは、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある』」(2:23-28)。

・この安息日論争からしても、ユダヤ人の指導者であったファリサイ派の人々が、いかに律法の決まりを大事にしていたかががよく分かります。当然律法学者・ファリサイ派によって指導されていた一般のユダヤ人も律法の決まりを守るということを大事にして生活していたと思われます。それがユダヤ人としての自らを支えるものであり、それに従って生きることがユダヤ人としての誇りでもあったからです。これが、ユダヤ人にとっての「律法による義」ではなかったかと思います。

・律法は、かく生きよという神の戒めであり、それに従って生きる者の行為が問題になります。律法の戒めを守って生きるその人の行為が評価され、神の前にその人は正しい人とされます。律法による義を得るということは、そのような意味で神の前に正しい人間としてユダヤ教を信じるユダヤ人社会の中で評価されるということなのです。

・今日のテキストであります使徒言行録の13章38節以下は、ピシディア・アンテオキアのユダヤ人会堂でのパウロの説教の最後の部分です。パウロの説教は13章の16節後半から使徒言行録の著者ルカによって記されていますが、パウロは、先ず出エジプトから説き起こし、ダビデまでイスラエルを導く神の働きを語りました。そして、神は約束に従ってダビデの子孫からイスラエルの救い主イエスを送ってくれたことを告げ、バプテスマのヨハネのイエスの指し示す証言を語ります。そしてイエスの十字架と復活について語り、37節で、「神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです」と宣べ伝えています。

・そして説教の最後の今日の個所では、「罪の赦し」が宣言され、パウロがローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒の手紙で語っている「信仰による義」(信仰義認論)が語られます。「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたモーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(使徒13:38,39)。

・先週の日曜日に、今日の船越通信にも書いておきましたが、神奈川教区のオリエンテーションがありました。「戦責告白について」というテーマで講師である関田寛雄牧師の講演がありました。その講演の中でも引用されていましたが、関田先生は、ご自身が書かれた『われらの信仰』という本を、委員以外のオリエンテーション参加者にプレゼントされました。オリエンテーションが終わってから、私もその本を持っていましたので、改めてぱらぱらと読み直してみました。そうしましたら、その中に、先生がかつて牧会しておられた川崎戸手教会の週報に書いた文章があり、その一つが<「信仰義認」ということ>という題でした。たまたま今日の説教の個所の内容でもありましたので、その部分は丁寧に読みました。ちょうど38節、39節の内容と関係しますので、関田先生の文章を紹介させていただきたいと思います。

・「『信仰義認』とは神の前に人間の救いを保証するものとして、財産、地位、資格、能力等一切の人間的なものではなく、ただ神のあわれみに対する、ひたすらなる信頼のみに立つことをいう。それは『信頼』という業によって義とされるのではなく無条件にこの罪人なる(的はずれに生きて来た、筆者注)私を受け入れたもう神によって義が与えられることを意味する。だからこののちキリスト者としていかに『義』たり得るかが問題なのではなく、神に信頼し続けることだけが問題となるのみである。人の基準によらず神の前に『よし』と宣告される故に信仰義認とは恵みの神のはからいにほかならない」。

・この「神のはからい」は、今日の個所では、「この方による罪の赦し」であり、「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」と言われていますから、神のはからいとしての信仰義認は、イエスを受け入れ、イエスを自らの支えとして、主として、私たちが生きていくことなのです。本田哲郎さんが言われるように、信仰とは「信じて歩みを起こす」ことです。イエスを信じて、イエスに従って生きていくことです。その場合、ここでもイエスを信じる私たちの側の信仰の業が問題なのではありません。イエスの信、神と一体となって生きたイエスの信への信頼が問題なのです。イエスとの関係を手放さないことなのです。

・そういう意味で、キリスト者にとって己を支えるもの、それは神のはからいに身を委ねること、すなわちイエスとの関係性を手放さないで生きていくことではないでしょうか。
関田先生は、先の文章の最後のところで、「信仰義認は思想の変化でなく生活の変化を生む。それ故信仰義認に於いてこそ、行為が問われざるを得ないのです」と結んでいます。人間にとって行為は、常に実のり(結実)です。その人が何に立っているかによって、それにふさわしい実として現われて来るものです。私たちが何よりも神のはからいとしてのイエスとの関係性を大切にして生きていくときに、イエスが大切にされたこの世で小さくされ傷ついた命、支え合い、分かち合い、平和、和解を私たちも大切に生きていくでしょう。そして神のみ心の支配する世界の実現を希望しつつ、生きるしょう。

・さて、使徒言行録では、パウロの説教が終って、「パウロバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってから、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついてきたので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるようにと勧めた」(42,43節)と言われています。この最後の「神の恵みの下に生き続けるようにと勧めた」は、原文では「神の恵みの下に留まるように勧めた」となっています。

パウロの説教を聞いた会堂にいたユダヤ人と神を畏れる非ユダヤ人(異邦人)は、パウロの説教を自分たちの価値観を根底からひっくり返すものとは受け止めなかったようです。もしかしたら、律法による義ではなく信仰による義というパウロの説教を、彼らはユダヤ教の信仰の延長線上として理解したのかもしれません。ところが次回扱います使徒言行録13章44節以下を読みますと、次の安息日には、「ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」のを見て、おそらくその中には多くの非ユダヤ人(異邦人)がいたのでしょう、「ユダヤ人たちはこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」(45節)と言われています。

パウロの信仰による義は、ローマ人への手紙3章22節にもありますように、「イエスを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義には、何の差別もありません」とあります。つまりユダヤ人だけでなく、非ユダヤ人(異邦人)にも信じる者にはすべての人に与えられるというのです。このことは、ユダヤ人には受け入れがたいことでした。ですから、異邦人が信仰に入ると、ピシディア・アンテオキアのユダヤ人たちは、町の有力者を動かして、パウロバルナバを迫害し、この地方から二人を追い出させたというのです。(13:50)

・ということは、42節、43節のユダヤ人の反応は、必ずしもパウロの説教を受け入れたということではありません。それだけユダヤ人にとっては、ユダヤ教徒として選民ユダヤ人というアイデンティティーに代えて、信じる者すべてに神の義が与えられるイエスの福音を自らのアイデンティティーにすることは困難なことなのです。

・関田先生は、「信仰義認は革命的契機を含んでいる。神の義は一切の差別を打ち破る。それ故なお差別を許し、差別と闘おうとしないのは、信仰義認の不徹底というほかない」と言っております。残念ながらパウロも彼の手紙を読む限りは、女性差別を克服しているとは思えません。

・私たちは、イエスというお方を通して、「罪の赦し」と「信仰による神の義」を与えられている者として、神の恵みの下に留まり続けたいと思います。そのことによって、人間を人間たらしめる真の支えは何なのかと問い、国家や民族や権力や富みなどの疑似的な支えの欺瞞を明らかにしつつ、全ての人が神の下に対等同等な者として、自分だけではなく、自分を大切にするように他者も大切にして生きる社会を望み見ながら、それぞれの場で、与えられている課題に取り組んで行きたいと思います。