なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(174)

          船越通信癸隠沓粥 。横娃隠看8月24日                  

・8月17日(日)の礼拝には、船越教会の近く浦郷町に住んでいる方が初めて出席しました。

下の道路を通る度にここに船越教会があり、どんな教会なのかと気になっていたということです。

この地にあって船越教会が毎日曜日礼拝を続けているということが、地域に対する証しでもある

ということを、改めて思わされました。この日は、午後2時半から都筑区のあゆみ荘で、毎夏開

かれている神奈川教区の社会福祉小委員会主催による「障がい者と教会の集い」があり、私も出

席することになっていましたので、礼拝後のお茶の会は早目に失礼して、出かける準備をして、

船越教会を後にしました。午後2時半の開始少し前にあゆみ荘に着き、受付をして会議室に入りま

した。この集いに参加する方の多くは毎回参加していますので、一年ぶりの再会を喜ぶ挨拶があ

ちらでもこちらでも聞こえてきます。私も何人かの方に、目の不自由な方にはこちらから声をか

けて挨拶をし、晴眼者の方とは目を合わせた時に挨拶をしました。この集いの今年のテーマは、

「連なり、つながる」です。案内の呼びかけ文は、下記の通りです。

・<主のみ名を賛美します。/「集い」では、人が人として大切にされる社会と教会になるよう、

参加者自身の声を聴き合い、問題を共有化する人間関係の形成をめざしてきました。/今年の

「集い」のテーマは「連なり、つながる」とし、28年間支え導いてこられた飯塚光喜牧師より

「集い」の歩みをうかがいます。/かけがえのない命の重さと尊厳をお互いに確認できたらと願

います。/「知り合うこと、触れ合うこと、生活を共にして」一緒に考え合い、豊かな交わりの

時を過ごしましょう。皆さんの積極的な参加をお待ちしています>。

・この呼びかけに応えて参加したのが、今年は50数名でした。例年からすると、やや少な目でし

た。I牧師はこの集いの28年を振り返り、最後にイエスの福音を宣教する教会が小さく弱くされた

者と共に歩むのではなく、自己保存的に教会を守ることだけを考えているなら、そのような教会

はイエスの福音に反するのではないか。そういう教会に仕える牧師は、牧師をやめたらよいとい

う趣旨の厳しい問いかけをもってお話を終えました。この問いかけはI牧師の持論で、今までも何

度も聞いてきました。目の不自由な参加者の中には、このようなI牧師の厳しい問いかけに対して、

そこまで言わなくてもいいのではと思っておられる方もいらっしゃるようですが、私自身はこの

I牧師の問いかけを自分なりに受け止めてきましたし、これからも受け止めていきたいと思ってい

ます。今年の集いには、船越教会から私の他に3名が出席し、一人の方は「最近の交通のバリアフ

リー」について発題を担当されました。

・この週は21日(木)から22日(金)にかけて、船越教会を会場として第32回「フェミニスト神学

の会」がありました。上記の集いと共にこの会にも私は毎夏参加しています。今年は21名の参加者

があり、今年は山口里子さんの『いのちの糧の分かち合い』をテキストにして、3人の発題者の発

題をめぐって学び合いの時を持ちました。発題者はこの本の中から自分が関心を持った章を選んで

発題をしてくれました。3人が取り上げたのは、教会の原点イエス運動の継承、主の祈り、マグダ

ラのマリアについて書かれたところです。3人の発題は三者三様で、テキストの内容を忠実に辿る

方、テキストの紹介と自分の問題意識を語る方、テキストの紹介と自分の出会った事例を通して自

己肯定感の大切さを語る方、それぞれ特徴があって話し合いも例年より活発だったように、私は感

じました。夜は交流会と翌日のスタンツ作り。翌日スタンツの発表と来年の予定を話し合って、

22日(金)正午過ぎに会を閉じ散会しました。

ローマ法王フランシスコの発言集の続き(17日船越通信に続き第2回)

・<「無関心のローバル化」を非難(地中海の小島ランベドゥーザを訪ねたとき)/「人々が自由

を求め、隷属と飢餓から逃れなければならないことは、世界にとってどうでもよいことなのですか。

あまりに頻繁に、わたしたちはその人たちが死にゆく姿を目にします。」/「こうしたわたしたち

の兄弟姉妹の死に、だれに責任があるのでしょうか。わたしたちはみんな答えるでしょう。『わた

しじゃない。わたしは関係ない。誰かほかの人でしょう。まちがいなくわたしではありません』」

「今日、だれもこのことに責任を感じていません。おそらくわたしたちはこう思うのです。『ああ、

気の毒に』。でも、そのまま道を歩きつづけます。」/「快適な文化が、わたしたちを自己中心的

な考え方にみちびき、隣人の叫びに対して無感覚にしてしまうのです。」/「密航あっせん業者は、

人の貧しさにつけ込んで搾取します。人々の貧しさが収入源なのです。」「わたしたちの無関心や、

わたしたち自身のうちにもある世界の冷酷さを克服して、泣く恵みを願いましょう。」/「洗礼の

恵みがうながしているのは、わたしたちが街の通りを歩くときに出くわす、劣悪でみじめな状況に

慣れてしまわないことです。」/「わたしたちは暴力に慣れてしまいます。まるで当たり前のこと

のように、です。わたしたちは兄弟が路上で寝ていることに慣れてしまいます。その人たちには屋

根もありません。」「わたしたちは難民の人たちが自由と尊厳を求めていることに、慣れてしまい

ます。その人たちは当然受けるべき待遇で迎え入れられてはいません。」/連帯「連帯。このこと

ばは、先進国では、使うことが憚れています。先進国ではほとんど禁句です。けれども、これはわ

たしたちの言葉です。」/「わたしたちは困窮しているだれかに向かい合っているでしょうか。そ

れとも自分の手を汚すことを恐れているのでしょうか。」

/「貧しい人はとくに、神を知るすべを教えてくれます。その弱さと素朴さは、わたしたちの利己

心や見せかけの安心感、自己満足というものを暴いてくれます。」/

空の修道院「空き家になった修道院は、お金を稼ぐためにホテルに変えるなら、教会のためにはな

りません。空の修道院はわたしたちのものではありません。それはキリストの体、難民の人たちの

ものです。」               (続く)