なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(493)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(493)復刻版を掲載します。2009年3月のものです。

 昨日、今日と連れ合いと出かけましたので、昨日のブログはお休みさせてもらいました。私たちはこの夏、

夏休みをとっていませんでしたので、連れ合いが大井川鉄道を乗ってみたいというので、出かけてきました。

この夏は、日本ではじめて蒸気機関車きかんしゃトーマス大井川鉄道を走るというので、小さな子供た

ちを連れたお父さんお母さん、おじいいさんあばあさんも結構来ていていました。トーマスは昨日は走った

ようですが、今日はお休みということでした。昨日ちょうどお昼時に大井川鉄道千頭駅に私たちは着きま

したが、千頭駅構内はトーマスやSL機関車を見る人でいっぱいでした。私たちは、千頭から井川線で井川ま

で行き、井川から奥泉駅まで戻って、奥泉からバスで予約しておいた寸又峡の宿まで行く予定でしたが、奥

泉の手前で、土砂崩れで井川線が運転を見合わせているので、バスによる振り替え輸送になりました。バス

千頭まで行き、千頭から寸又峡行のバスに乗ることができました。今日の午前11時20分のバスで寸又峡

離れるまで、静かで自然豊かな上、温泉も入ると体がつるつるするいい湯の寸又峡を楽しみました。

 さて、8月28日(木)19:00~20:30紅葉坂教会で、私の支援会の集会「最高裁上告棄却報告

集会」があります。お時間の都合つく方で、横浜に近い方は、是非ご参加ください。よろしくお願いいたし

ます。
 


         黙想と祈りの夕べ通信(493[-22]2009・3・1発行)復刻版


 2月21日に教区総会が開かれました。ぼくの友人が新年度の予算の審議の中で、各教会への負担金算定にお

ける一教会の大幅な約170万円の減額について質問と意見を述べました。彼は2年前に広島から転任してきま

したが、奥羽教区と西中国教区という地方の教区に長くいた経験から、大教会がこれだけの負担金減額をし

たら、その分小さな諸教会の負担が増えることになるので、互助の精神からしてもこれはおかしいと発言し

ました。しかし、財務委員長は神奈川教区の負担金算定方式からすると、こうならざるを得ないという説明

に終始しました。私は会計のことには詳しくないので、よくわからないのですが、常々教区や教団の諸教会

のことを考えて教区会計の運営をしているのか疑問を持っています。例えば、教区間の格差をお互いに補い

合う連帯資金においても、神奈川教区に求められる金額になるべく近づくようにという姿勢ではなく、これ

しか出せないということで、できるだけ少なくするという意図が見え見えなのです。以前の総会でも、財務

委員長が一個教会で開拓伝道のために蓄える分は、負担金の算定基準になっている経常支出から減額すると

いう規則を常置委員会を通して教区総会に出し、それが承認されました。私はそれはおかしいと思いました。

開拓伝道をするための資金を蓄えられる教会は会計規模の大きな教会です。余剰金が出るとなれば、開拓伝

道準備金に回し、それだけ経常支出から控除されて、負担金算定の基準金額が減額されます。弱いところを

支えて何とか共に歩んでいこうというあたたかさが伝わってきません。残念なことです。

 上記の私の発言に続いて、次のような発言がありました。自分も教区総会に出て感じたことを話す。教区

の核問題小委員会についてある議員が議案書に書いてある活動は10年来変わっていない。これでは人生の無

駄だと思うという発言をした。自分はその発言を聞いて、では無駄でない時間って、どういう時なのかとそ

の人に聞きたかった。人それぞれ無駄であるか大切にしていることであるかは違う。私は今日まで国会前の

座り込みをしてきた。4年過ぎたがそれが無駄だとしたら、何に時間を使ったら無駄でないのか。人間は食

べて寝ている時間が絶対必要。あとは無駄な時間なのだろうか。何が無駄で、何が無駄でないのかは、人に

よって違う。物を買うがその人には大切でも、他の人にはどうでもいいかもしれない。人生は殆どそういう

意味では無駄と言えるものではないか。ミチャエル・エンデの『モモ』は時間泥棒の話だった。命を削って

あわただしく何かをやるのと、ゆったりとした時間を過ごし、少ししか事柄は出来ないけれども、豊かな時

間を過ごす。こんなことを思い出しながらもう一度読み直したいと思わされる。人間が本当にしなければな

らないことは多くはない。自分はいろいろな課題があり、毎日忙しくしている。それが無駄とは思えないが、

この人が言う無駄とは何だろうか。一日どう生きるか。与えられた命を、よかった、ありがとうと言えると

すれば、人を傷つけたり、人の犠牲の上にあぐらをかいているのでなければ、無駄とは言えないのではない

か。教区総会以来、ここ数日何が大切なのか、何が無駄なのか、思い巡らしている。人から見たら無駄と言

えるかもしれないが、自分が大切だと思うことをしていけたらいいのではないか。

 別の方の発言がありました。今日は西公会堂の集まりに行った。その集まりはいろいろな働きをしている

方々の表彰式がメインであった。昨日入場券をわたされたので、行ってみたが、不思議でしょうがない。今

迄形式的な会ではないかと思っていたが、今日はみんなやさしく見えて、自分の変化に驚いた。いろいろな

作業所の製品も売っていたので、買ってきた。町内の会長さんも表彰されていた。行ってよかった。 



              「神の無力さ」         3月1日


 イエスは、私たちと共なる神、インマヌエルです。神が人となられたという大いなる神秘とは、神が私た

ちに愛されることを望んでおられるということです。全く人の世話にならざるを得ない、か弱い子どもとな

ることで神は人と神との間にある、あらゆる隔たりを除こうとしておられます。

 食べ物を与えられ、面倒を見てもらい、教えられ、導かれることを必要とする小さな子どもを、誰が恐れ

るでしょうか。私たちは、普通神について語る時、頼りきれる力に満ちた全能の神をイメージして語ります。

しかし、神は、私たちに頼りきっている無力でか弱い神となることを望まれました。ご自分は「私たちと共

にいます神」となり、私たちに「神と共にいる私たち」となることを望んでおられるような神を私たちは恐

れることが出来るでしょうか。


                     (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)