なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(142)復刻版

 昨日私の裁判支援会が出す通信3号の準備が整いました。これで明日の発送作業がとどこうりなくできます。ご協力してくださった方々に心から感謝いたします。
 さて今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(142)」復刻版を掲載します。


         黙想と祈りの夕べ通信(142[-37]2002.6.17発行)復刻版

 今日はエイジグループの集まりがあり、青年会は伝道師に任せて、私は信和会(原則として65歳以上の男性)に出席しました。この日の信和会ではO兄が発題を担当されました。兄は6年前にお連れ合いを天上に送られた後、一人でヘルパーさんに助けられながら生活しています。一人になってから自分の自由にできる時間が豊かにできたので、朝晩には聖書を読むようにして、特にこの頃は一人で話し相手がいないので、声を出すことがないので、聖書を声を出して読むようにしているというのです。

 O兄は、聖書の中で一番難解な書物はヨハネ黙示録ではないだろうか。幻想的な記述が多く、また象徴的な言語や数が使われていて、ただ読むだけでは、何が書かれているのか分からない。そのヨハネ黙示録も水曜日の聖書研究で学び、理解することができ感謝である。また、おとぎ話のようでもあるヨナ書の物語の筋を追って、お話しされました。

 90歳を過ぎて、少し耳が遠くなっていますが、聖書を読み、学ぶ喜びを日々味わっておられる、かくしゃくとしたO兄のお話に、参加者一同感動させられました。私は、O兄のお話を聞きながら、たまたま心身の健康が与えられて老いの孤独を生きてゆく人の姿を思い浮かべていました。そのあり様はさまざまでしょうが、聖書を読み続けながら、一人の生活を続けて行かれるO兄のような生き方もあることに、老いの生のひとつの可能性を示されました。

 認知症が進んで、ほとんど自分の娘も見分けられないでホームの生活を送っておられるS兄のような方の老いの生もあります。先年召されたM兄のように、体は不自由で他者の世話を受けながら、頭は最後までクリアーな方の老いの生もあります。

 その多様性に老いの豊かさを見て行きたいと思いました。

 以上の私の発言に続いて、一人の姉妹がその日の婦人会の特別集会について報告してくれました。

 担当者のA姉がいわゆる「良きサマリア人の譬」の箇所を取り上げた。岩波訳では「サマリア人に親切にされた人の譬」という表題になっていることが紹介され、聖書を読む視点の新しさを感じた。四つの分団に別れて、サマリア人に助けられたユダヤ人の旅人は助けられた後、どう生き方が変わったか? 普段蔑視していたサマリア人に助けられたが、そのことが分かったら不愉快だったかも知れない。律法学者、パリサイ派の人は今の社会だったらどうだろうか。

 いろいろな想像をもって聖書を読むことは、かって自分が若かった時には考えられなかった。聖書はただ暗記させられるだけだったから。理屈を言うと、理屈なんかいいのよ、信じればいいのと言われたものである。いろいろな発言があった。聖書を想像をめぐらしながら自由な発想でその行間を読むことができるのは、素晴らしい。若い人を含めて、いろいろな人の自由な発想をもって豊かに聖書を読めるようになったらと思う。

 
       「神は愛である」(『ルターによる日々のみことば』より)

  神は愛である。  第一ヨハネ4:16

 「神は愛である」とは、いったいどんな意味でしょうか。それは目を開きさえすれば、だれでも見て理解することのできる明白なものです。神の恵みのたまものは、あなたがどちらを向いても毎日見ることができるからです。太陽、月、光にみちた空、そして、地上は、木の葉と草と、多くの種類の植物によってみたされ、わたしたちに食物を与えるように準備されています。さらに、父、母、家、平和、安全、世の統治者による保護、等があります。

 そして、これらすべてに加えてその愛するみ子をあなたがたに与えてくださり、福音によってあなたがたのところにみ子を宿らせてくださって、あらゆる悲しみとはげしい悩みの中であなたがたを助けてくださいます。いったいこれ以上のことを神があなたがたのためになさることができ、また、あなたがたがこれ以上に良いものを求めることができるでしょうか。神の愛は燃えつくす火であって、人間の知恵では窮めつくすことができません。しかし、この愛を見、心にとめることのない人は、・・・・・、石のようなかたくなか、それとも死んでいるのです。

 さてここで、(ヨハネは言っていますが)、あなたがたがキリスト者でありたいと望み、神を知ることを望み、神が純粋な愛以外のなにものでもなく、その愛を見、また知るならば、この愛をあなたがたの心にうけとり、同じことを隣人にすべきであります。というのは、神のこのような愛の焔を感じる人は、それによって少ししか暖まらず、少ししか燃えないということはありえないからです。
                        
                              1532年の説教から