なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(34)

      「あきらめない」マタイ7:7-12、2019年5月5日(日)船越教会礼拝説教


・「あきらめない」ということが、私たちが人間として生き抜く上で、どんなに大切かということを私が

教えられたのは、ナチス強制収容所の体験を記した『夜と霧』の著者である精神医家のフランクルの書

物からです。フランクル強制収容所の体験から、処刑されずに済んだ人々の中で、過酷な強制収容所

生活を生き抜いた人は、強制収容所を出られたときには、これをしたいというものをどんな形にしろもっ

ていたと言っています。例えば、自分は自分の研究を完成させるまでは絶対に死ねないという研究者と

か、もう一度家族に会うまでは死ねないという思いを強く持っていた人だとかです。そういうものをもた

なかった人たちは、あの厳しい過酷な強制収容所の生活を耐え抜けずに、命を絶った人が多いと言うので

す。ナチス強制収容所という場所は、ユダヤ人の虐殺を目的に建てられたのですから、人の命と生活を

否定するところだったわけです。そのようなところで生き延びることの難しさは大変なものだったに違い

ありません。


強制収容所という場所は特別なところのように思われるかもしれませんが、ある意味で私たちの日常が

強制収容所そのものということが出来るかも知れません。確かに肉体の存続は、例えばたまに餓死した人

が発見されたとか、野宿者の中で行き倒れになって死んだというごく限られた人以外は、今の日本の社会

では一応可能でしょう。ただ段々それも怪しくなってきていますが。しかし、精神の死を強いられている

人は案外多いのではないでしょうか。一時期は一年間に3万にもの人が自殺しましたが、今でも約2万4

千人もの人が自殺しているのが、私たちの日本社会です。そのことは、私たちの日常がいかに生きづらい

かということを表していると思います。


・この「あきらめない」ということの大切さを、最近も強く教えられたのは、辺野古で新基地建設反対の

抗議行動を続けている沖縄の方々からです。辺野古新基地建設を、反対する人を力によって封じ込め、工

事を強行して、反対行動を止めさせようとしている日本政府に対して、辺野古で座り込みを続けている

人々は、「諦めないことが勝つ秘訣だ」と、抗議行動を続けています。


・今日私たちに与えられた聖書の箇所、マタイによる福音書7章7節以下は、「求めよ、さらば与えられ

ん」という言葉で始まっている、多くの人に良く知られたイエスの言葉です。ここで語られています「求

めなさい。・・・・・探しなさい。・・・・・門を叩きなさい」というイエスの言葉は、あきらめないで、求め続け

なさいというメッセージではないでしょうか。


・私はこのイエスの言葉を想いめぐらしていたときに、ヘブライ人への手紙11章1節の言葉が浮かんでき

ました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という言葉です。こ

こでは、信仰は「望んでいる事柄」「見えない事実」への信頼であるということが言われています。「望

んでいる事柄」「見えない事実」とは何を言い表しているのでしょうか。私たち人間がそれぞれ勝手に持

つ願望が「望んでいる事柄」「見えない事実」というわけではないでしょう。まれにはその人の持つ願望

ヘブライ人への手紙が言うところの「望んでいる事柄」「見えない事実」に重なっているということも

あるかも知れませんが、多くの場合人が持つ願望は極めてエゴイスティックなものだと思うからです。


・イエスが「求めなさい」と言う時、私たちが何を求めていくのかは、今日のマタイによる福音書の箇所

の文脈の中で、明らかになっています。9節から11節にかけて、「あなたがたのだれが、パンを欲しがる

自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがた

は悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の

父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と記されています。この言葉によって、私たちが求め

るべきものは何かが明らかにされています。今日の私たちの社会では、子への親の虐待が問題になってい

ますので、このイエスの比喩がストレートに伝わらなくなっているかもしれません。けれども、イエス

時代のユダヤでは、親が子どもに良い物を与えることに疑いを持つことはなかったのでしょう。


・そういう子どもに対する親の無償の愛を例に引きながら、イエスは、「まして、あなたがたの天の父は

求める者に良い物を下さるにちがいない」と言っているのです。ここで言われています「求める者に天の

父が下さるにちがいない『良い物』」とは何でしょうか。ルカによる福音書の並行記事では、「まして天

の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)と、マタイの「良い物」が「聖霊」になってい

ます。


・マタイ福音書では、求める者に神が与えて下さる「良い物」が「聖霊」だとは記されていません。その

代りに、「まして、あなたがたの天の父は求める者に良い物を下さるにちがいない」を受けて、「だか

ら、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これが律法と預言者である」

(マタイ7:12)という、いわゆる「黄金律」と言われています愛の教えが記されています。このマタイ福

音書の文脈からしますと、求める対象がはっきりと「愛において成立する人と人との関係であり、神と人

との関係」であることが示されているのであります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた

がたも人にしなさい」という黄金律の実行です。


・愛と言いますと、私たちの中では能力にしろお金や物にしろ、持っている人が持たない人に与える行為

のように思われがちですが、場合によってはそのような行為も含まれますが、より根本的には、その人の

尊厳を認め、大切にすることが愛です。≪殺すな≫という律法は、腹を立てることさえ否定する徹底的な

隣人の尊重において真に守られるのですが、そうした人間関係の成立を≪求めなさい≫と、ここでは言わ

れているのです(新共同訳注解)。


・今年も、5月2日から今日まで、福島の家族の保養プロジェクト、リフレッシュ@かながわが行われて

います。私は初日のホテルでの受付を担当しましたが、その日の夜ありました放射線内部被曝に関する

講演を聞くことができました。今日の週報の船越通信にも少し書いておきましたが、講師の牛山医師は専

門的な話を終えて、最後に被爆の恐れの中で生活する福島の家族の方々に、その厳しい状況の中でも前向

きに生きていくために、「未来のために今できること」ということで、臨床医としての提案のオマケとい

う形で、一つは、放射能の恐れについて、このような提案をしています。「過去から学び、未来のために

今できることをする」として、「知識を学び、情報を得る」、「力を合わせる=協同」、「意見表明(SN

S、メディア、選挙)、「防ぐ(廃炉)⇒再生エネルギー支援」「備える(水、現金、ヨウ素剤)」(これ

原発事故は今後も起こり得るということを含めて語っていました)。そして次に、今日の週報の船越通

信にも書きました、もう一つの提案として、福島にとどまっているにしろ、避難しているにしろ、「今こ

こで生きること」を尊重すること。すなわち「自己肯定感」を持って生きることの大切さをおっしゃって

いました。船越通信には書きませんでしたが、講演のレジュメには、自己肯定感についての説明が記され

ています。それを紹介したいと思いますが、このように記されています。


・「自己肯定感は親からの無償の愛を受けることで子どもが獲得。しかし親が、無償の愛をうまく子ども

に注げないこともある。そんな親に育てられても、子どもが親を理解し、許せる時には、子どもは自己肯

定感を持てる。/…自己肯定感は他者の許容につながり、信頼関係を作りやすく、前向きに生きる力につ

ながる」。


・「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を

与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えること

を知っている」というイエスの言葉も、愛において成立している神と人との関係において、私たちが自己

肯定感を持った人間として、前向きに生きることへと導かれていることを語っているだと思います。


・高橋三郎さんが、私たちが神に求める祈りについてこのように言っています。

・「祈りとは、神に宛てられたわれわれの手紙であるが、神は必ずこれに応えて、返事を下さる。神は愛

のきわみなる、われらの父だからである。イエスはこれを保障してくださっているのである。それは何と

いう、絶大なる恵みの約束であろうか。われらの祈りは虚空に消え失せることなく、父の愛の御手にしか

と受けとめられている。これを確信するとき、われらの祈りは熱きを加えざるをえない。

 しかしこの約束の言葉は、同時に問いかけを内に含んでいる。父なる神の応答は、すでに出ているの

だ。しかしあなたは、それを誤りなく受けとめているだろうか。あなたの受信機は、これを正しく受信し

ているだろうか。― この問いの前に立つとき、われわれは深く祈れば祈るほど、次第に言葉少になり、

逆に聞く者へと変えられてゆくことを知る。父なる神の愛が、約束の言葉としてわが胸に迫るとき、感謝

と喜びに溢れるわが心は、その神の御旨を誤りなく聞き取るために天に向かって、より広く開かれてゆ

く。われわれはそこに慰めの言葉を聞くであろうが、同時にまた、悔い改めへの戒めが、聞こえてくるか

も知れない。だがそれと併せて、パウロの言葉がイエスの言葉を重なって、聞こえてくる」。


・「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イ

エスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(第一テサロニケ5:16-18)。


・そして、「どうか平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あ

なたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリスト

来られるとき、非の打ち所のないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真

実で、必ずそのとおりにしてくださいます」(同4:23-24)。


・この牛山医師が言う自己肯定感は、イエスが保証してくださっている神の愛の確かさ、その深さに出

会って、私たち自身が、かけがえのない大切な存在として、ここに存在し、いるだけで、受容されている

ことを感じて、自己肯定感を持って前向きに生きることができることに通じるのではないでしょうか。


・「多く愛された者は、多く愛することができる」と聖書で言われているように、愛されて、受け入れら

れて自己肯定感を持って生きる者は、他者である隣人との関係において、「

愛において成立する人と人との関係」を生きることができるのではないでしょうか。牛山医師が、「自己

肯定感は他者の許容につながり、信頼関係を作りやすく、前向きに生きる力につながる」と言われるよ

うにです。


・私たちは、自分が自分との関係において、肯定感を持って生きること。一対一の関係においては、他者

の尊厳を大切にしてお互いの関係を築くこと、三人以上の社会的な関係においても、人の命と生活を奪う

社会ではなく、すべての人を生かし合う社会の形成に向けて、「あきらめない」で生きていきたいと思い

ます。