なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(133)

 今日は「父北村雨垂とその作品(133)」を掲載します。   
 
             
          父北村雨垂とその作品(133)

   原稿日記「一葉」から(その16)

 ハイデガー存在と時間の中でも、弁証法的論理は指摘することが出来る《二編 二部 五十八章~岩波版桑木務氏訳》。文庫(中)の286頁以下にその論理の頂点があるものと考へらえるところに興味深いものを覚える。而しハイデガーじは、その後に於て弁証法的論理であることを明言してゐる。

 世界の鬼がニーチェを皿に食い荒すかや
  (この句には矢印があり、1979年(昭和54年)5月16日付で「ナレド中止、要改定」と赤字で   記されています。)
 世界の鬼の血に 跳び散る ニーチェの骨肉
  (この句にも、1979年(昭和54年)4月27日付で「ナレド中止、要改定」と赤字で記されてい   ます。)
 ニーチェの肉は 世界の鬼が 食い荒らす
 
 ちぐはぐな 言葉と歩るく 咽喉佛(のどほとけ)
 
 えんまの鼻(はな)から まかり出た蜘蛛 閻魔
 
 考へるブロンズに 葦 やがて 去る
        ↓ (1979年(昭和54年5月15日)
 考へるブロンズに 葦 風と去る

 豊満な 乳房 を見せて 顔 あからめて
        ↓ (1979年(昭和54年5月15日)
 豊満な乳房と月は 顔赭らめて

 神と詞(ことば)に 鑿を採れ 槌を採れ


 状態は時間の中に在ると曰うが、もともと、時間というものが在るのでは無く、状態が
時間を姙むものである。時間とは、無である状態ことである。状態は常に現在点に於ての
性格を以て、過去と未来を包摂してゐる。故に状態が、時間であり、時間が無と共に状態
の認識の裏付けとしての存在である。故に時間は状態の内に在るものであって、現在に於
ける未来、現在に於ける過去として、現在に於ける状態としてゐる時間は状態の表現現象
とも考えられる。状態のないところに時間は考えられないと同時に時間の意識なくして状
態は有り得ないと曰う論理が成立する。
                        無と状態より    雨垂

 またしても 眞珠の臍を みてしまう

 ニコマコス 僕が鬼です 今日は

 ニーチェの狂気プラトンの静かな狂気

 プラトンの蒼い狂気と ソクラテス

 今日は アリストテレス 僕は鬼

 祭壇の羊 白く 風にのり

 神のミイラと握手を拒む ニーチェの骨

 尾の消えた蜥蜴 故里(ふるさと)を蹴り 去るや

 砂針と 鼓動が 虚無(ゼロ)を 問いつめる

 秒針と 鼓動 むなしい 懐中(ふところ)に 

 世界の鬼がニーチェの骨を 皿に吐く

 世界の鬼が ニーチェの骨をもてあそぶ

 皿に跳る ニーチェの骨肉は 世界の鬼と

 遂に踵で 猿奴 まっすぐ 地獄行き

 フラスコの モイラを 解けや フッサール

 その人に 世界の鬼は 胃が悶え

 風と共に 朝の破片(かけら)が 起ちあがる

 背を曲げて 光る峠に とつおいつ

 ひなひなとわらいくづれた 悲劇の婦(ひと)


    回想

 茅ヶ崎の狐と歩るく 半世紀

 茅ヶ崎の狐は 杖か おまえもか