今日は「黙想と祈りの夕べ通信(203)」を掲載します。これも約10年前のものですが、教育基本法
が改悪される直前のものです。第一次安倍政権下でしたが、現在安倍首相は夏の参議院選後に本格的に憲
法改悪に取り組む意思を表明しています。偏狭な国家主義ではこの地球世界の未来を拓くことができない
ということは、20世紀と21世紀のこの十数年で世界では実証済みだと思います。むしろ現憲法9条の平和
主義によってこそ、この地球世界の未来を拓くことができるのではないでしょうか。現在の日本政府が選
択しようとしている方向性は、時代の逆行以外の何ものでもありません。
黙想と祈りの夕べ通信(203[-45]2003.8.17発行)復刻版
今日の午後に神奈川教区の平和集会が当教会で開かれ、私も参加しました。テーマは「『心』の総動員
に抗して~教育基本法改定が狙うもの~」で、講師は高橋哲也氏でした。高橋さんは、1956年福島県に生
まれ、東京大学大学院博士課程単位取得。現在東京大学大学院総合文化研究科教授で、専攻は哲学という
ように、著書の著者についての紹介には記されていました。講演の内容は、ほぼ最近出版された同氏の
『「心」と戦争』に書かれていることに対応していました。講師は、今学校現場では『心のノート』や三
段階評価による愛国心通知表によって、子どもたちの心に国家が侵入しようとしている状況を、具体的な
事例を挙げて話されました。その総仕上げとしての「教育基本法の改定」が政府、与党によって目論まれ
ていますが、その改定案が現在の教育基本法とその理念において全く異なっていることが指摘されまし
た。現在の教育基本法は個人をベースにしているのに対して、改定案は愛国心や日本人としての自覚が核
となっていて、教育への国家の干渉が正当化されているというのです。私は高橋さんの話を聞きながら
(時々居眠りをしましたが)、戦時下の教会を批判してきた者として、私自身の主体性が問われるように
思えてなりませんでした。今後政府の思惑通り事が進むかどうかはわかりませんが、私自身がどこに立ち
続けなければならないのかを、しっかりと考えておかなければと思いました。それはイエスの十字架は当
時のローマ帝国やユダヤ神殿支配体制を支える権力者によって引き起こされたもので、現象的にはイエス
の敗北です。けれども、イエスの信からすれば、イエスの信の貫徹であり、ローマもユダヤの権力もイエ
スを殺害することは出来ても、イエスを自らの論理に従わせることは出来なかった訳ですから、逆説的に
はローマとユダヤの権力の敗北を意味しました。自分もそのようなイエスの十字架を担えるかどうかわか
りませんが、十字架を通してしか未来を展望できない状況があると思うのです。なれるかどうか分かりま
せんが、その時に十字架を回避しない者になりたいと祈っていきたいと思っています。
上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。先週の日曜学校の夏期キャンプ(3-5
日)、寿学童のキャンプ(6-7日)、聖歌隊の合宿(9-10日)と泊まることが多かった。どの集いの時
も、夜にゆっくりと同室の人と話をすることができ、それぞれの抱えている問題や課題を交換することが
できた。なかなかそういうチャンスがないので、個人的な話をいろいろな人とゆっくりすることが出来た
のはよかったと思う。今日は午後の教区平和集会での講師の話とダブルが、日曜学校のキャンプでしたス
タンツでも、小学校1、2年生ですが、子どもたちが自由にものを言えるし、考えられる。寿学童のキャ
ンプもそう感じた。のびやかにものが言える。ところが、今日の集会の講師から、学校では子どもたちに
愛国心の通知表を三段階でつけていると聞かされショックだった。子どもたちがのびやかにものが言える
ということを、私たちがどこまで保障していかれるかが問われていると思った。自由にものが言え、お互
いにそのことを交換できるということがどんなに素晴らしいことかを思う。自分のできない経験を、人か
ら与えられるし、子どもたちから教えられることも多い。今日の講師の話を聞いて、これからものびやか
に自由に子どもたちが生きていけるように、真剣に求めていきたいと思わされた。
「ひとりの罪人を天に導く」(『ルターによる日々のみことば』より)
あなたはもろもろの敵の中で治めよ。 詩篇110:2
わたしがあなたに権威をさずけたのは、友や、ばらゆりの中でではなく、いばらと敵の中で治めるため
である。それゆえ神に仕え、キリストに従おうと望むものは、すべて非常な失望と痛みを受けなければな
りません。キリストご自身が、「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、わたしにあってのみ
平安がある」と言っておられます。こうして、あなたはもろもろの敵の中で治めよ、ということは神によ
ってさだめられたものにほかなりません。そしてこの苦しみを味わわないものは、キリストの国のもので
はありません。彼は友の間におり、ゆりとばらの間にすわり、邪悪な人ではなく、聖徒たちとともに住も
うと望んでいるのです。
ああ、あなたはなんというキリストの裏切者であり、神をけがす者であることでしょう。もし、キリス
トがあなたがしているとおりのことをなさっていたとすれば、いったいだれが救われたことでしょうか。
キリストは自らをむなしくして、神の徳と地位と知恵を捨て、罪人とともにいることを望まれました。そ
れは彼らが高められるためです。キリストは罪人をご自分のところに引きよせられたのであって、霊的な
人、信仰深い人、正しい人と関係をもとうとされませんでした。これに対して、あなたはなにをしていま
すか。全く正反対のことです。あなたは兄弟の罪を進んで負おうとせず、自分の義と知恵によってあなた
自身を負おうとしています。ところがキリストはご自分をむなしくして、ご自分の義と知恵を捨て、他の
人々の罪と不義を背負われました。さあ、あなたがどれだけ忠実にキリストに従っているかを考えてみて
ください。
神の子らは悪しき人々と交わることを避けません。むしろ、彼らを助けようと望みます。自分だけ天国
へ行こうとせず、できれば極悪の罪人である彼らも連れて行こうと望みます。
詩篇110篇の講解