なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(192)

 今日は「父北村雨垂とその作品(192)」を掲載します。

               父北村雨垂とその作品(192)
  
  原稿日記「風雪」から(その13)

 かつての人間はその精神によって「神」としてその尊敬する意識を具象化して「御神体」を創造した。

それが現在では極端に唯物思想が発達して敬神意慾を断絶し、彼等の唯物論的先人をその死後残骸を防腐

薬とそれらの目的に近い物質によって納棺して廟を建て、生前の功に拝顔、以ってその英雄視を継続する

ことに務めた。これは唯物論の自己矛盾であり、彼等の「愚」をさらけ出した奇観とも考えられる。今日

でもそうした彼等の奇怪な行動は観念論者とは別にしても憫笑の対象とする人々は無数に近いほどあるこ

とを私はしている。
                         1984年(昭和59年)2月19日

 
 古代ローマギリシャその他アフリカの大陸に於いて発達した驚異的な数学の発達も零の発見には印度

に及ばなかった事実は、前者はソフィスト系族なるギリシャをはじめとして理論に偉大な発展を示しなが

ら、実践的意識による主体中心の衝動意識を先行させる印度に先取された事実はヴェダーレタ哲学を中核

とした行動と思想との混成の上に創造された「意識のある行為」によって構成された発意に「無」或は

「空」と共に数学に於いて「零」を先取された事実は絶対に見逃してはならぬ一大特徴として認識してお

くことを許(?)してはならない一大事項である。
                         1984年(昭和59年)2月21日


 現象の源泉は「力」であり同時に自然の母体であり、即ち「力」は現象によって世界、精密に云えば自

然を表象した世界を構成すると観られる。
                         1984年(昭和59年)6月2日

 
 「信仰」は「眞」を認識する「信」を基体として発展する「力」の意識であるとも云える。
 
                         1984年(昭和59年)6月2日

 
 宇宙なる絶対世界はその殆どが複数による構造の現象が世界の中核をなしている。所謂流動の世界像で

ある。そうしてその流動の最も単純視されたものが神格視されるし、若しくは仏格を意識する。即ちその

流動の根基が神であり仏でもある。これを後のショーペンハウエルは意志と象徴の世界と観じ、ニーチェ

は権力の世界として神と抗争して実存の世界を構想した。特にショーペンハウエルは仏教の影響下に在り

ながら「生死一枚」つまり平等と差別の感触に誤りを犯して彼の終末を嘲笑の因子を置き去りにし終わっ

た。
                         1984年(昭和59年)2月29日


 実存主義的生活者の形而上学的意識、現在世紀の実存主義的生活者に形而所学的意識が喪失しているか

を考えてみると彼等の意識からも決してぬぐわれている訳では無い。現在の哲学者がよく「ニーチェ」が

最後の形而上学を語っているかに云っているが、私は再思再考してみたがそうした形而上学的意識はニー

チェ以後に於いても必ずしも失われているとは限定することは軽薄な意見であることに落着する。

 意識は計量の不可能な現象として人間に多くの負担を課す無相の相を持っている。

                         1984年(昭和59年)3月7日


 神をめざす実存主義と云う松浪信三郎氏の著『実存主義』の中の三項p.78に於いて荒野に叫ぶ声 ―ド

ストエフスキーとその思想の影響を鋭角的に受納したシェスとベルジャーエフも東洋の仏教により亦その

系統を純粋に享受した禅思想とその発出した源泉の差がその形而上学的残香に於いて依然として同行し難

い事実を改めて認めざるを得ない。

 尚一般哲学者がよく口にするニーチェが西欧に於ける哲学に於ける最後の形而上学などと軽薄な断定を

聞くが、私は彼等の指考する形而上学よりはるかに永い形而上学的意識の存在を確認することに吝かでは

居られない。
                        1984年(昭和59年)3月9日