なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(4)

        使徒言行録による説教(4)使徒言行録1:12-14、
             
  エルサレムに生まれた最初の教会

・今日は使徒言行録の犠12節から14節の個所によって、最初の教会の誕生に思いをはせながら、「教会とは何か」について考えて見たいと思います。

使徒言行録の著者ルカによりますと、最初の教会はエルサレムに生まれたとされています。イエスが天に昇って行かれたのを見た〈使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻ってき〉(12節)て、エルサレムの泊っていた家の上の部屋に上っていきます。この家は、イエスが十字架に架けられる前に弟子たちと一緒に食事をした最後の晩餐が行われた家であるという人もあります。その使徒たちは、ルカによれば、イエスを裏切ったイスカリオテのユダを除いた11人の弟子達だったと言われています。

・3節に、11人の弟子たちの名前が記されています。その順序は、ルカによる福音書6章14-15節に出てくる十二弟子の名簿の順番と微妙に異なっています。例えば、ルカ福音書では、ペトロとアンデレ、(ゼベダイの子)ヤコブヨハネは、兄弟として二人がこの順序で記されていますが、使徒言行録では、「ペトロ、ヨハネヤコブ、アンデレ・・・」という順序になっています。使徒言行録の順序は、おそらく後のエルサレム教会において、ヤコブよりヨハネが重んじられていたことを示すものと思われます。何れにしても、ルカは、昇天後11弟子に加えて、「婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たち」(14節)が最初の教会のメンバーだったと、ここに記しています。

・果たして、これだけの者たちがエルサレムに集まって、「エルサレムを離れず、・・・父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録1:4)という復活の主イエスの命令に従っていたのでしょうか。私には、ここはルカの創作ではないかと思えてなりません。後のエルサレム教会の中でイエスの弟ヤコブエルサレム教会の中心的な指導者になったということは事実ですから、何らかの時期に、十字架のもとに婦人たちと共に佇んでいたイエスの母マリアだけでなく、イエスの兄弟たちがエルサレム教会のメンバーに加わったということは考えられます。しかし、最初からということはどうなのでしょうか。余りに出来過ぎているように、私には思われます。

・ルカは、これらの人々が「心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)というのです。「心を合わせて」は「心を一つにして」ということで、これは理想的な教会の姿を描くルカの用語であり、「熱心に・・・した」もルカが好んで使う言葉です。ですから、使徒言行録の犠12節から14節のところで描かれている最初の教会の姿は、歴史的というよりは、ルカの文学的な表現ではないかと思われます。実際にイエスの弟子たちの何人が、そして弟子たち以外にどの程度の人たちが集まって最初の教会が誕生したのかということは、よく分かりません。よくわかりませんが、このルカの記事から、イエスが十字架に架けられたエルサレムに、イエスの死後イエスが復活してからそう長く時間が経過しない時期に、ルカは40日後と言いますが、最初の教会が誕生したということは言えるのではないでしょうか。

エルサレムでは、まだイエスの十字架の記憶は鮮明だったと思われます。ローマ帝国への政治犯として十字架という極刑を受けたイエスの弟子たちとその親派が、(復活の主)イエスの命令とは言え、エルサレムで集まって、神の命そのものである霊が降るのを待って、「心を一つにして熱心に祈っていた」というのです。どのくらいの人数の人たちかは分かりませんが、イエスの弟子たちを中心に新しい人間の集まりが誕生したというのです。

  最初の教会に結集された人々を呼び集めた復活の主イエス

・この最初の教会に集まった人々を、一つに結び合わせたものは、「復活者イエスの現臨と召命という、ただ一つのことであり」ました。彼ら彼女らはそのことを信じて従ったのです。十字架に架かって殺された「イエスの復活顕現を抜きにして、これらの人々がエルサレムに結集されるということは、歴史的には不可能でした」。ということは、教会の発端がイエスの復活と顕現にあったということを意味します。

・ルカによれば、このイエスの復活と顕現によって集められた人々は、地の果てまでその証人として派遣されようとしているのです。そのために彼ら・彼女らは「心を一つにして熱心に祈っていた」というのです。この祈りによって、人々は復活の主イエスと交わり、自分たちに与えられる神のみ旨に耳を傾けていたのでしょう。

  最初の教会と現在の教会の違い

・このようなルカによって伝えられている最初の教会には、現在の教会が大切にしている、信仰告白も、正典聖書も、教職制もありませんでした。これらのものが作られたのは、2世紀半ばころから4世紀5世紀にかけてカトリック教会が形成される過程です。最初期の教会には、教会は地域によって多様性がありました。少なくとも紀元1世紀前半のの教会は、権威主義的なエルサレムの教会に対して、ガリラヤには民衆の教会が存在したと言われていいますし、アンティオケを中心にした非ユダヤ人(異邦人)の教会が、パウロの伝道活動によってもローマの植民都市を中心に相当に広がって存在していて、それぞれがほとんど独立して活動していたと思われます。

・この頃までの教会には、信徒の中には生前のイエスのことを知っていた人たちがいたでしょうし、イエスの復活顕現に出会った人たちも生きていたでしょうから、信仰告白や聖書正典や職制が整っていなくても、ある種のイエスとの直接性が生きていたのではないでしょうか。そのことは、エルサレムにできた最初の教会では、人々が、復活の主イエスの顕現に出会って、聖霊が与えられるとの約束を信じて、「心を一つにして祈っていた」と言われていることからも明らかです。その最初の教会では、まだ、聖書の説き明かしも、讃美歌も、今日のような礼拝式による礼拝も、多分行われていなかったのではないでしょうか、信仰告白もなかったと思います。

・最初の教会に結集された人々は、イエスの証人として生きて行くために、復活の主イエスとの交わりによって、自分たちがイエスと一つになることを祈り求めたのではないでしょうか。イエスの生前、受難から十字架へと一歩一歩進んでいくイエスに、最後まで一緒に行動を共にすることが出来なかった弟子たちをはじめ最初の教会に結集された人々の中には、イエスを見捨てたという悔いの思いが強くあったと思われます。復活のイエスの顕現に出会って、十字架を前にしてイエスを知らないと三度イエスを否なんだペトロが、「あなたは私を愛するか」と三度イエスに問われ、「私があなたを愛していることは、あなたがよく知っておられます」と三度答えて、イエスの弟子として、イエスの証人の一人として、新たに出直していきます。ペトロだけでなく、最初の教会に結集した人々も、そういう復活の主イエスとの交わりを通して、聖霊を受けてイエスの証人となっていくことが求められたのではないでしょうか。そのために「心を一つにして祈っていた」のです。

  倒錯した現代の教会

・さて、去る10月23日から25日に開催されました第38回合同後24回教団総会に、私は私の戒規免職撤回の議案も出ていましたので、3日間の教団総会を傍聴しました。信仰告白に基づき教憲教規による一致を掲げ、「伝道する教団の建設」をめざすという現在の教団執行部が主導する教団総会での議事の中で、しばしば「イエスはどこにいるのかという」という声が上がっていました。この教団総会では、福島から放射能内部被曝から子どもたちを守る運動を展開している片岡輝美さんを呼んで、福島の現状報告を聞きました。にもかかわらず、時間が押し迫ってくる中で、反原発の議案の先議が動議として出されましたが、議場はその動議を否決してしまいました。沖縄へのオスプレイ配備と米兵による女性強姦致傷事件への抗議の緊急議員提案の議案も議長団は、教規による議案提案期日内に出ていないと言う理由で、議案にもしませんでした。この時は岩国で岩国基地からオスプレイが沖縄の普天間に移動する時、抗議行動をしてハンストをした岩国教会の大川牧師が、命に関わる問題なのでぜひこの議案を議場に諮り、可決して欲しいと切々と訴えましたが、受け止められませんでした。そういう状況の中で、「イエスはどこにいるのか」という声が上がったのです。

  復活の主イエスに招かれた教会

・復活の主イエスとの生命的な交わりと、聖霊を受けてイエスの証人として立つことが、最初の教会に集められた人々が求められたことです。最初の教会はそのために成立したのです。戦時下の日本キリスト教団のように、教会を守るために富田満統理が伊勢神宮に参拝したり、教団が戦争協力をすることが、復活の主イエスとの生命的な交わりを求め、聖霊を受けてイエスの証人として立つ教会に結集した人々の選ぶ道でしょうか。違うのではないかと思うのです。むしろ様々な苦しみの中で、この世で虐げられて生きている人々に寄り添い、復活の主イエスによって切り開かれた希望に支えられつつ、権力や資本や人間のエゴイズムに抗って、神の下にあって対等な仲間として共に生きて行くことではないでしょうか

 ※この日の礼拝には聴覚障がいの方が出席し、前もって説教原稿を頼まれていましたので、分か  りやすいのではと思い、「項目」をつけてみました。