なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(84)

        船越通信癸牽粥  。横娃隠嫁11月25日     

・18日(日)の礼拝には、名古屋からHさんが出席しました。また、聴覚障がいのOさんの出席もありました。お二人からは前もって18日の礼拝出席の連絡を頂いていました。特に聴覚障がいの方には説教の完全原稿の用意が求められていました。最近はほぼ完全原稿にして説教に臨んでいますが、その原稿に自分以外の方(会衆)が目を通すことは考えてはいませんので、完全原稿と言っても、荒っぽいところもあります。この日の説教原稿は、他の人が読んでもほぼ意味が通るようにしておきました。それでも、説教後Oさんから2,3質問を受けました。

・名古屋のHさんは、昨年4月以降私が船越教会に移ってからも、2回は船越教会の礼拝に出席しています。お年は86歳になります。Hさんとは、私が1977年4月から名古屋の御器所教会の牧師に就任し1995年3月に辞任するまでの18年間、名古屋で密度の濃い交わりを与えられました。1995年4月から紅葉坂教会に転任してからも、まだその頃のHさんは、大学の教授は退いていたと思いますが、レーザー光線の研究によって会社の技術顧問のような仕事をしていて、その会社が八王子の方にあって、年に何回かその会社に名古屋から来ていました。その時はよく紅葉坂教会の礼拝に出席してくださったり、私に連絡を下さり、お会いしていました。私が船越に来てからは、もう技術顧問の仕事も終わったでしょうし、そうこちらに来る機会がないでしょうから、船越教会にHさんが来るとは思っていませんでしたが、プライベイトな用事で東京に来る時があり、そのような時にその前後の時間を作って、船越教会に来て下さっているようです。Hさんは、私と会う時には必ずHさんがした信徒講壇の原稿や、求道者の質問へのHさんの回答文書やDVD映画を鑑賞して話し合うHさんの家庭集会での原稿などを持ってきてくれます。今回は英文のNIB(ニュー・インタープリターズ・バイブル)のマタイ福音書概説を自分で翻訳したからと言って、それも持ってきてくれました。

・この日は礼拝後皆さんといつものようにお茶を飲みながら懇談をして、Wさんに追浜まで送ってもらい、Hさんと追浜で昼食をとりながらしばらくお話をして別れました。Hさんはその日は品川のホテルに泊って、翌日大学時代の同窓会に出て、名古屋に帰るということでした。教会でみなさんと別れる時に、また来年も寄せてもらいますと言っていました。

20日(火)は早くから岐阜坂下の私の連れ合いの従妹の連れ合いが亡くなって葬儀があり、私も一緒に出かけました。坂下は名古屋から中央線で中津川まで行き、その先2つ目の駅です。千賀の従妹の家は坂下の駅前にあり、夫婦とも日本キリスト教団坂下教会のメンバーです。葬儀は坂下駅から10分ほどの葬祭場で行われましたが、司式は坂下教会の木下忠司牧師がしてくださいました。故人は11月初めに自分から病院に行き、脳梗塞が発症していて、そのまま入院し、19日に召されました。ドイツにいる娘が見舞いに来ていて、19日に帰る予定でしたが、予定を数日延期して、20日に葬儀をし、その日の内に火葬埋葬して、22日にドイツに帰るということでした。坂下の火葬場は山の上にあり、釜は一つで、火葬には2時間くらいかかります。参列者は一度火葬場から葬斎場や各自の家に帰り、火葬が終わったら、また集まります。火葬後もしばらく釜から出して冷やしておくようです。教会関係の方か、地域の方か分かりませんでしたが、皆さん大変親身になって葬儀に関わってくださいました。大都会とは違う、人々の絆の深さを感じさせられました。それにしても坂下教会の木下忠司牧師は、坂下教会の他に、田瀬教会、付知教会の代務も兼ねておられます。以前は田瀬教会、付知教会に牧師が在任していましたが、今は経済的にそれぞれの教会が一人の牧師を支えることが難しくなっているようです。この日は夜に田瀬教会で突然事故でお亡くなりになった方の前夜式もあったようで、木下牧師はこんなことは二度とないでしょうとおっしゃっていました。

・22日には国会前の辺野古新基地建設反対座り込みに参加しました。この日は少し早めに国会議事堂前駅に着きましたので、記者会館で昼食をとり、経済産業省前の脱原発テント村を見ながら、国会周辺を歩いてみました。私の裁判が行われる裁判所も国会から近いことを知りました。国会の正面、道を挟んだ憲政会館公園を散策し、小さな池のところにあった、枝の先の葉から七分ほど紅葉していた美しい一本のもみじをしばらく観賞して楽しみました。公園に散在してある椅子には、近くで働いている方でしょうか、あちらこちらでお昼の食事をとっておられる人もいました。国会正面を見ながら、樺美智子さんが亡くなった1960年の国会デモはどんなだったのだろうかと想像していました。この日の座り込みには沖縄から平良修さんが参加しました。座り込みは午後1時から4時までですが、平良修さんは午後2時ごろにいらして2時間ほど一緒しました。平良修さん、平良悦美さんは、確か今年の初めごろにお二人で船越教会の礼拝に来てくださいました。今回修さんから、辺野古の海岸で拾った貝殻を船越教会の方々にと言われて、頂いてきました。辺野古や高江の闘いがまだまだ終われない状況を沖縄に強いている日本政府とそれを許している私たちヤマトの人間には、心から許し難い怒りを胸に秘めておられるに違いない平良修さんの友好的な態度に触れて、政府も国家も相対化し得る一対一の人間関係の構築という課題が自分自身に課せられていることを強く思わされていました。

・この日は夜に紅葉坂教会で私の裁判の支援会事務局会があり、そこで12月3日の第2回口頭弁論と報告集会のことと、その後の判決の日程を予測しながら今後の予定を話し合いました。