なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(238)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(238)」復刻版を掲載します。改めて『ルターの日々のみことば』

を読んでみますと、いささか距離を感じますが、歴史的な文書として読んでいただければと思います。        


       黙想と祈りの夕べ通信(238[-29]2004・4.18発行)復刻版


 4月11日のイースターの一日は三ツ沢の教会墓地で墓前の祈りもあり、説教準備で寝不足で朝からず

っとでしたので疲れが出て、夜は黙想と祈りの夕べが4月から水曜日に移行したので、早めに就寝しまし

た。そのために月曜日の朝早く目が覚め、午前4時ころお風呂に入ってラジオのスイッチを入れました。

対談番組の放送で、お話からすると、多分自閉の子どもや不登校の子の働きをされている方で、千葉県の

柏で活動されているUさんという方のインタビュー番組でした。その方のお話を聞いていて、教えられる

点がいくつもありました。まず自閉の子を理解するためには、その子がすることを同じように自分もして

みることが大切だと言われました。その例として二人の子のお話をされました。一人はいつも水道場の水

道の蛇口から水を出して、その水に手をかざし、水滴を散らす行動を繰り返していたそうです。Uさんは

その子の隣の蛇口で同じようにしたそうです。すると散った水滴から虹色が見えたので、その子はこれを

見るためにいつもここに来て、水を出していることが分かり、無駄だからやめなさいとは言えなかった

と、おっしゃっていました。もう一人の子は、校庭でもマージャンやトランプなどを楽しむ部屋でもな

く、その部屋の隅っこの縁側に座って、ラジカセのイヤホーンで音楽を聴いていたそうです。自分もその

児の隣りに座ったら、その児が一つのイヤホーンを差し出し、「聴く」というので、借りて耳に当て音楽

を聴いてみたそうです。すると、ラジカセから流れている音楽は若者の曲で自分には分からなかったが、

そこで音楽を聴いていると、何とものんびりしていて、ゆったりと時間が流れて、気持ちよかったそうで

す。何もしないで、デットスパースのような誰も来ないところで音楽を聴いているその児は大変幸せで満

足していることを発見したというのです。そういうお話を通して、子どもたち一人一人の心に触れる大切

さを訴えられました。その話し方が何とも温かで、ああこういう人が本当の教育者なのだなーと思わされ

ました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。私もテレビを観て感じたことがある。以

前『パパラギ』を読んで同じことを考えさせられたが、近代人は自分の誕生日を覚えて、一年一年数える

が、それは必要ないのではということである。99歳の現役の西陣織の織師の方を木村郁乃がインタビュ

ーしている番組である。その織師は能装束をなるべく軽く作る工夫をして制作した。出来たその衣装はキ

ラキラ輝いて素晴らしい。テレビなので実際にはどうなのか分からないが。その織師は自分の作品を気候

風土の異なる各国に寄贈していると言う。100年後、150年後に自分の寄贈した衣装がどう変化して

いるか、それを見たいと言う。99歳の人が? エーと思ったが、夢見るように語っていた。僕は300

歳位まで生きられる様に思っていますと。この人は人生を本当に長いスパンで見ているのだなあーと思わ

された。私はこの3月で60歳になった。自分としてはやっと一人前になれたという感じである。その人

は99歳である。『パパラギ』は、一年一年数えるのではなく、その時その時を燃焼しつくしていくこと

が大切であることを教えてくれた。年齢にこだわらないで永遠なるものを求めてその日その日を喜んで生

きていきたい。



        「永遠に価値のある犠牲」(『ルターによる日々のみことば』より)



 彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる 
 必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。           
                              ヘブル7:26-27


 一度だけささげられたキリストの犠牲は、永遠に有効です。わたしたちはこのことを信じますから、祝

福されます。もしこの犠牲をよこにかたづける人があれば、それは神をけがすことです。キリストご自身

が犠牲のそなえものであって、わたしたちを永遠に罪からきよめるために、死んでこの犠牲をささげられ

たのです。それゆえ、主の苦しみが終わり、ささげものが完成されるところに、主のほまれが始まりま

す。十字架上で、主のほまれは、主のよい評判と力あるわざとともに、地におちました。そして人々は、

かつて主が人々を助けられた時、それを神の力でなさったのか、それとも悪魔の力によってされたのかと

疑い始めました。この瞬間、主ご自身の良心も暗くなり、死の力が主をおおいました。それゆえ、もしそ

れが犠牲のそなえものであるならば、主ご自身の血が取られなければなりませんでした。小羊は刺し殺さ

れなければなりませんでした。犠牲には血が流されなければなりませんでした。しかし、キリストの苦し

みはしばらくでした。最後に、キリストは祭司のことばによって叫ばれました、「わが父よ、彼らはわた

しに反対してこのことをしましたがどうか彼らをゆるしてやってください」。

 さて、その後でキリストのなさるみわざは何でしょうか。主は神のさばきの座にすわっておられます。

全世界が主を捨て、主を滅ぼされたと思った時、主の永遠の統治は始まったのです。主はわたしたちが罪

に責められる時、わたしたちのためにとりなしてくださいます。さばきのことばがわたしたちを襲い、お

ののく良心が罪に対する神の怒りを感ずる時、キリストの犠牲以外にわたしたちに助けはありません。そ

の反対に、この犠牲から離れて、よそを見るものは、だれも救いを見いだすことはできないのです。

                               ヘブル人への手紙七章の説教