なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(239)」復刻版

 今日も「黙想と祈りの夕べ通信(239)」復刻版を掲載します。2004年4月25日のもの

ですが、この中に当時辺野古の海でボーリングが始まろうとしていることが書かれています。あれ

からほぼ9年が経ちますが、その頃から国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みがはじまりまし

たので、国会前の座り込みも約9年になるということです。今は夏場の時間として月曜日と木曜日

午後2時から5時まで、通常は午後1時から4時まで行なっています。国会議事堂正面からします

と、ちょうど裏側の参議員会館前の道路が座り込みの場所です。普天間の移設問題と辺野古新基地

建設の問題(高江を含めて)は、まだ継続中です。沖縄をはじめ在日米軍基地の全面撤去を求めて

いきたいと思います。



     黙想と祈りの夕べ通信(239[-30]2004・4.25発行)復刻版

 今日訪問の帰りに本屋により、その書棚に碑文谷創『死に方を忘れた日本人』を見出し購入して

きました。しばらく前の新聞に書籍案内でみていたものです。著者はSが本名で東京神学大学の私

の一年下のクラスでした。兄貴は私と同じ学年であり、又私と特に親しかった同級の友人と寮が同

室だったこともあったりして、下級生の中では私の記憶に残っている人物の一人です。彼は東神大

闘争の時に教授会側と対立した学生側(全学の約半数)の中心的な一人でしたが、東神大を除籍さ

れた後、確かある出版社に入り、1990年頃自分で出版社を立ち上げ「SOGI」という雑誌を

編集するようになって今日に至っています。「SOGI」という雑誌は市販はされていないようで

すが、その頃から葬送ジャーナリストとしてメディアにも登場するようになっていました。学生時

代は幼さが残る感じのナイーブな青年という印象でした。その彼が東神大闘争では反教授会側に立

ち、教授会の神学を真向から批判する論陣を張っていたのを思い出します。その彼が上記著書の

「おわりに」の中で書いていた下記の文章に接して、若いときの彼の優しさが今も変わらずにある

のを感じて嬉しく思いました。


 「コミュニティーが崩壊し、家族が分散し、死の文化装置の柱であった葬祭仏教が退潮し、日本

人の死を巡る環境変化は著しいものがある。

 だが私は単純なことこそ大切にすべきだと思っている。家族が、友人が、固有のその人の生に拘

ると。僧侶などの宗教者も、そして葬祭業者も、その遺された者の拘りにきちんと即することであ

ると思う。葬祭文化を支えてきたのは、死者への拘りだったと思う。


 遺族の死者への拘り、そしてその固有のそれぞれのいのちの尊厳、このことの単純な承認と新鮮

な驚きこそが、今必要なのだろうと思う。…」


 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。昼にあった聖書研究会でも訴えま

したが、沖縄で普天間基地の移設のためのボーリングが辺野古の海で始まろうといている。沖縄を

一昨年訪れたとき、辺野古の監視小屋にいたお年寄りの方が海を見ていたが、辺野古の海は本当に

美しかった。おじいたちは若い人には生活があるので反対運動から離れなさいと言っているとおっ

しゃっていました。その時私たちを案内してくれたEさんは、この辺野古の海で調査のためのボー

リングが始まったら、ジュゴンはショック死したり、いなくなる。この美しい自然を壊したら、二

度と取り戻すことはできない。そこに戦うための飛行場を作るなんてということは許されないと、

必死の思いで反対運動をしている。彼女は半年前からカヌーを習い出した。ボーリングが始まった

ら、カヌーで阻止するために。いよいよボーリングがはじまろうとしているのを知って、いたたま

れず、Eさんにメールを入れたら、すぐに返事をくれた。今朝カヌーで抗議行動をするために5時

起きしてでかけ、海に出た。天候がよくなく一艘が転覆したが、ボーリングも天候不順で中止にな

った。昨夜は遅くまで準備し、気持も高ぶって寝られず、今朝は早く起きてカヌーを漕いだので、

体中が痛いです。沖縄のおばんたちは頑張っていますと。私はそのメールを読んで、Eさんたちは

体だけでなく心も痛いのだと思った。沖縄と横浜は海で繋がっていて、横浜にも米軍基地である

が、全然沖縄の人たちとは違う。その厳しさと優しさが伝わってくる。ニュースでは知らされない

で、ボーリング調査が実施されようとしている。毎日何をしていてもそのことが私の頭の中にあ

る。みなさんも祈ってください。



          「勝利の生活」(『ルターの日々のみことば』より)


 すべて神から生まれた者は、世に勝つからである。     第一ヨハネ5:4


 このことばによってヨハネキリスト者にすすめをなし、信仰者がその生活と行為において、信

仰の力と実践を証明しなければならないことを想い起させております。なぜなら、この書簡は主と

してにせキリストによってのみわたしたちが救われ、わたしたちのわざも行ないも救いになんのい

さおにならないという教えを聞くことを好み、それを聞く時、彼らもキリスト者であると考えま

す。ところが、彼らは、信仰の戦いに加わって働く必要はないと考えています。彼らはこの信仰か

ら、世と悪魔に打ち勝つ新しい人が生まれてくるはずだ、ということを認めません。

 このことばは、あなたがたが神から生まれておりながら、なおも古い死んだこの世の性質のうち

にとどまり、罪のうちに生き、以前と同じように悪魔に喜ばれているということを意味します。そ

こであなたがたが世に打ち勝たず、世に負けているなら、あなたがたが自分の信仰とキリストをど

れほどほめたたえても、あなたがた自身の行為があなたがたに反対の証言をし、あなたがたが神の

子ではないことをあかししています。

                        ヨハネ第一の手紙5・4-12の説教